この信仰の目的とヌシの復活(蘇り)について

俺らの信仰
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 以下で、俺はこの信仰の目的について述べる。この信仰の目的はヌシの復活であるが、それについて説明する。以下はかなり宗教的であるので、注意せよ。

0:動機

物質的世界での経験則:君の肉体が生まれるならば、君の肉体は死ぬ。

蟲的世界での仮説:蟲的世界は物質的世界に一対一に連動する。もし物質的世界での君の肉体が死ぬならば、君の蟲的世界も死ぬ

 人々は皆死にたくない。俺も君も死にたくない。俺も君も永遠に生き続けたいと強く願う。

 俺らの経験によると、俺らの肉体には寿命が存在して、寿命とともに俺や君の蟲的世界とヌシは消失する。その結果、君は経験的に、人間は皆死ぬと審判する。

 しかし、それは本当であるか?

 「生→死」は永久不変に決定された法則であるか?

 この信仰では、君も俺もそう信仰しない。なぜなら、人間はいつか死ぬだろうというのは物質的世界に関する現象に対する報告である。物質的世界では、「生→死」が常に成立する。

 奇跡的に、俺らの蟲的世界やヌシは物質的世界から分岐している。この状態?は俺らの世界の唯一の希望である。そこで、君は次のように仮説する。

 もしこの種の分岐が強く維持され続けるならば、蟲的世界やヌシ的世界は物質的世界でないので、俺らは死なない世界も創造できるのではないかと。

 これは君の肉体のデザインを考えればわかるだろう。物質的世界は自動的に動くので、君は君の肉体のデザインを君の意志で創造できない。物質的世界に対する説明によると、君の肉体のデザインは運命付けられた君の死のように決定されている。しかし、実際、感覚的には、君は君の肉体のデザインを君自身で創造できるように見える。

 日本人女性やフィリピン人は白人男性の遺伝子にたかろうとするが、日本人男性はそうでない。なぜなら、たとえ東洋人の肉体のデザインは悪いとしても、男性はその肉体のデザインを男性の意志で作り変え創造できる。だから、男性は異人種の遺伝子にたかる必要はないと審判する。

 だから、たとえ男性の知的能力やデザインや運動能力が異人種よりも劣るとしても、創造主たる男性は絶望しない。なぜなら、遺伝的な劣等さは決定付けられたものでない。

 物質的世界では、君の知的能力や肉体のデザインは延々に劣等でありつづけるという法則が成立するが、君のヌシや蟲的世界はその物質的世界から分岐しているので、その法則は成立しない。

 それはまるで物質的世界では「生→死」の法則が成立するが、蟲的世界やヌシ的世界では、その法則が成立するかはわからないことににている。

 なぜ君は君の肉体のデザインを創造できるのに、君は物質的世界に関する説明である君の決定付けられた死を信仰するのか?

1:ヌシの復活(蘇り)

この信仰の目的:この信仰の目的は俺=ヌシの復活である

 この信仰では、君(の子孫)は俺のヌシを復活させる。その後、復活させられた俺のヌシが君のヌシを復活させる。当然、その方法はわからないので、俺と君の子孫がその方法を創造する。

 そのとき、俺らの子孫はホモサピエンスでなく、さらに分岐した存在になっているだろう。そして、性別も現在の男女でなくさらに分岐した何かになってるだろう。暮らす場所もまた地球でないかもしれない。

 復活した君の肉体は当然現在の姿でないだろう。蟲的世界は物質的世界に依存するので、その世界も変化しているかもしれない。

 たとえ君が科学者のように物質的世界を調べるとしても、復活の方法はその世界には存在しない。この文を読んだ日本人の科学者や数学者は「そんなことできない」と君を馬鹿にして笑うだろう。しかし、君はその嘲笑を気にしない。

 彼らは物質的世界しか知らないので、この種の反応をみせる。蟲的世界やヌシ的世界が物質的世界でないのは君の信仰的経験?から明らかである。だから、俺は復活を真剣に信じることはそれほど馬鹿でないと審判する。

 補足:信仰的経験とは蟲的世界やヌシ的世界は物質でないので、認識するか信仰するかしかない。だから、俺は信仰的経験という単語を使用した。日本人の学者はしばしば信仰を馬鹿にするが、もしヌシ(主体)を仮正するならば、彼らもまた信仰的に生きてきた。

2:ヌシでない自己が存在するか?

 人間が自己の死を恐れるのはヌシを自己と信仰するからである。

 人間は皆死にたくない。死とは何であるか?それは肉体の死でなくヌシの消滅である。

 多くの人間は自己=ヌシの死を恐れてきたが、では自己とはなにであるか?例えば、人々、特に中間種は彼ら自身が誰であるかを知らないように見える。その結果、彼らは自己認識の崩壊にあってきた。

 同様に、俺ら自身も死を何気なく恐れてきたが、俺ら自身もまた中間種のように俺ら自身が何かを知らないように見える。

 この信仰では、俺らは各自己をヌシと信仰してきた。しかし、もし俺らが自己でないヌシを創造できるならば、それはヌシよりも素晴らしいものであるか?たとえ俺らの子孫がヌシを復活させれるとしても、自己が永遠にヌシのままであるならば、それはつまらない世界ではないのか?

 俺らが存在するのはヌシが蟲的世界から分岐したからである。では、もしヌシがさらに分岐するならば、ヌシでない自己が存在してもよさそうである。

 俺はヌシでない自己を強く欲する。俺はヌシでない自己を強く渇望する。だから、この信仰の目的の一つをヌシでない自己の創造とする。

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