儒学及び神学と自然科学はどちらが本当の学問か?学問の意味

歴史
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 江戸時代では、儒学の一派、朱子学や陽明学が日本人によって研究されてきた。西洋では、長い間、神学が研究されてきた。

 自然科学の勃興の後、日本人の高慢な自称自然科学者(菊池誠や田崎晴明などのニセ科学批判者)は儒学や陽明学、そして神学を学問でなく、とるにたらないくだらないものとみなしてきた。しかし、この勘違いは非常に害悪である。

 なぜなら、学問とは本来神学であり儒学であった。

 ここでは、なぜ儒学や神学こそが本当の学問であり、自然科学が奇妙な学問であるかについて述べる。以下は俺の単なる意見であり、証拠は存在しない。

学問とは何か?

学問に対する君の認識:学問とは本来この世界に存在しない何かを扱う。

 人間が自然界に存在しない何かを扱う時、どちらが正しいかという正当性に関する争いが生じてきた。人間がそれを創造するとき、その何かは正当性や根拠を持たなければいけない。だから、正当性を与えるために、人間がその正当性や根拠を研究する必要があった。

 私たちが生きている自然界には、善悪の判断が存在しない。人生の意味や目的が存在しない。男女公平と男女平等のどちらが良いのかは存在しない。しかし、俺らが社会生活を営む時、俺らは善悪の判断を下し、人生の目的を創造しなければいけない。

 男女平等と男女公平、どちらが正しいか?

 人生の意味とは何であるか?

 学問なるものが本来扱うべきであったのは自然でなく、この世界に存在しない何かである。学問なき人間は善悪の判断を下せないので、社会生活を営めない。しかし、もし俺らが社会生活を欲するならば、俺らは善悪の判断や人生の目的を創造しなければいけない。

 そのとき、俺らはでたらめな善悪の判断や人生の目的を嫌うので、俺らは正当性をもつ判断や目的を創造しなければいけない。では、その正当性とは何か?正当性をもつ善悪の判断や目的とは何か?

 だから、学問が必要とされた。

 具体例をあげよう。例えば、人生の意味は学問の範疇、男女公平に関する研究も学問である。東洋人の肉体のデザインも学問の範疇である。

 理論物理学者・大栗博司や菊池誠は白人コンプであった。なぜなら、彼らの肉体のデザインは白人の肉体のそれよりも劣等であった。しかし、未来における東洋人の肉体のデザインはこの世界には存在しない。

 自然界は東洋人にとっての良いデザインとは何かを教えない。だから、学問は東洋人の肉体のデザインを研究しなければいけなかった。俺らの肉体のデザインは、人生の意味や善悪の判断と同様に、この世界に存在しない。

2:儒教こそが学問である。

 儒教:需要では、先祖を重視することは良い。しかし、それが良いか悪いかは自然界には存在しない。だから、大天才・孔子はそれを研究して、彼なりの正当性を与えてきた。

 儒教に対する俺の勝手な印象によると、儒教は先祖と礼節を非常に重視する。儒教は東洋文明の根幹を形作ってきただろう。西洋では、中東発祥のキリスト教がその役割を担ってきて、そこで神と罪の概念が重視されてきた。

 実際、白人は罪を気にするが、彼らは礼を気にしない。だから、白人種はとにかく失礼な人間が多い。また、白人は先祖を一切重視しないので、彼らの歴史は頻繁に断絶してきた。

 東洋人から見ると、白人種の先祖軽視や礼節軽視は非常に奇妙に見える。しかし、これは文明や正当性、そして知的基盤の違いである。東洋人と西洋人では、生きている世界が異なる。

 東洋人は先祖と礼節を重視したい。西洋人は神と罪を重視したい。このとき、正当性に関する争いが生じる。なぜなら、先祖も礼節も神も罪も自然界には存在してこなかった。

 だから、東洋人は儒教を学問して、先祖や礼節に対する正当性を与える必要があった。

3:自然科学の特異性と数学

 自然科学の特異性:もし学問の条件が正当性に関する争いが生じるであるならば、自然科学はその意味で(無神論者にとって)学問でない。

 神を信じない東洋人にとって、自然科学は学問でない。しかし、神を信じるコーカサス人種にとって、自然科学は学問である。

 有神論者は神が自然界を作ったと信じる。だから、有神論者にとって自然科学とは学問である。なぜなら、有神論者は神を信じるので、神の意志がこの世界に存在すると信じる。

 意志が存在する時、俺らはその対象をしばしば経験的に疑う。だから、もし神の意志がこの世界に存在するならば、俺らは太陽の運動すら疑わなければいけない。俺らは自動的によって構成される俺らの視界すら疑わなければいけない。

 しかし、もし人間の本質が神への服従であるならば、たとえ神の意志がこの世界に存在するとしても、問題はない。たとえ太陽の運動や俺らの視界の構成が神の意志によって作られ、それが疑われるものであるとしても、それを盲目的に信じることそれ自体が俺らが奴隷や家畜でないことの証である。

 神の意志が存在する時、異なる神を信じる人間は異なる世界を見ていることになる。つまり、俺が見ている世界と君が見ている世界は異なるので、どの神の世界やどの人間が見ている世界(や視界)が最も正当な世界であるかに関する正当性をめぐる争いが生じる。言い換えると、その時、自然科学は本当の学問になる。

 数学のおもしろさ:数はこの世界に存在しない。しかし、数学に関する正当性をめぐる争いは現時点で生じていない。これは非常に奇妙である。

おまけ:迷走する西洋と日本人の人もどき

 現在、西洋文明は非常に迷走している。西洋人も西洋文明も滅亡するだろう。では、なぜ彼らは迷走してきたのか?

 白人は善悪の判断を下す能力を失ってしまったように見える。彼らは遺伝的に最も優秀なホモサピエンスである。しかし、彼らの優秀な遺伝子は男女平等が良いか、トランスジェンダーが良いか、晩婚が良いか早婚が良いかを教えない。

 世界で最も優秀な白人遺伝子は黒人奴隷が良いかナチスが良いかを教えてこなかった。

 白人に対する俺の違和感は日本人の大学教員に対する違和感にもつながる。大栗博司や村山斉や立川祐二は天才と称されてきたが、彼らは日本人から借りてきたお金を返済していない。彼らはその借りたお金を布施と嘘をついてきた。

 さらに悪いことに、大栗博司や村山斉や立川祐二はアメリカ大陸における多様性を賛美している。アメリカ大陸における多様性は私たちモンゴロイド人種の虐殺の結果である。だから、それを賛美する事は非常に悪い。その虐殺は黒人奴隷よりも悲劇的であった。

 大栗博司や村山斉や立川祐二の天才遺伝子はアメリカ大陸における多様性が良いか悪いかを教えない。その結果、彼らは多様性は素晴らしいという歴史?を受け入れてきて、日本国内でも多様性(私たちの虐殺の結果である)を導入しようとしてきた。俺が彼らの思考を見た後、俺は彼らは文明や歴史の概念を持っていないと審判する。

 何が善悪の判断を教えるのだろうか?

 俺らの文明や歴史は天才遺伝子によって本当に創造されるのだろうか?

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