
なぜなら、宗教や信仰や文明は善悪の判断や行為の正当性を与える。明治維新の後、大栗や村山の先祖は彼らの善悪の判断を失った。その結果、彼らは善悪の判断を下せずに動物化した。
俺は豊臣秀吉の偉大さを大人になるまで理解できてこなかった。しかし、俺は大栗博司や菊池誠や村山斉を見る時、バテレン追放の意味を正確に認識した。大栗は天才でなく、キリシタン大名と同じである。
キリシタン大名は武器や商売のためにキリスト教を利用したが、大栗や村山は白人になりたい、白人コンプを解消したい、白人にちやほやされたい、白人の仲間入りしたい。そのために、彼らは日本人を生贄として、からゆきさんとして(無自覚的に)売っている。
1:切支丹大名とからゆきさんと日本神話
切支丹大名
秀吉「ポルトガル人が多数の日本人を買い、その国(ポルトガル)に連れて行くのは何故であるか」
https://ironna.jp/article/11884?p=3
コエリョ「ポルトガル人が日本人を買うのは、日本人が売るからであって、パードレ(司祭職にある者)たちはこれを大いに悲しみ、防止するためにできるだけ尽力したが、力が及ばなかった。各地の領主その他の異教徒がこれを売るので、殿下(秀吉)が望まれるならば、領主に日本人を売ることを止めるように命じ、これに背く者を重刑に処すならば容易に停止することができるであろう」
日本人が売られる様子を生々しく記しているのが、秀吉の右筆、大村由己の手になる『九州御動座記』の次の記述である。
日本人数百人男女を問わず南蛮船が買い取り、手足に鎖を付けて船底に追い入れた。地獄の呵責よりもひどい。そのうえ牛馬を買い取り、生きながら皮を剥ぎ、坊主も弟子も手を使って食し、親子兄弟も無礼の儀、畜生道の様子が眼前に広がっている。近くの日本人はいずれもその様子を学び、子を売り親を売り妻女を売るとのことを耳にした。キリスト教を許容すれば、たちまち日本が外道の法になってしまうことを心配する。この前段において、秀吉はキリスト教が広まっていく様子や南蛮貿易の隆盛について感想を述べている。そして、人身売買の様相に危惧しているのである。秀吉は日本人が奴隷としてポルトガル商人により売買され、家畜のように扱われていることに激怒した。奴隷たちは、まったく人間扱いされていなかったのである。
それどころか、近くの日本人はその様子を学んで、子、親、妻女すらも売りに来るありさまである。秀吉は、その大きな要因をキリスト教の布教に求めた。キリスト教自体が悪いというよりも、付随したポルトガル商人や西洋の習慣が問題だったということになろう。イエズス会関係者は、その対応に苦慮したのである。
https://ironna.jp/article/11884?p=3
切支丹大名とは日本人のキリスト教徒出会った。彼らは日本人を奴隷としてポルトガル人やスペイン人に売った。その行為に対して、豊臣秀吉は激怒して、奴隷売買を禁じた。
その後、バテレン追放令が下された。日本人奴隷の売買は長崎や九州で盛んであった。切支丹大名は戦後時代に荒れ果てた日本列島の後に生じた現象である。これは周王朝の崩壊の後に、孔子が登場したことに似ている。
からゆきさん
からゆきさん(唐行きさん)は九州で使われていた言葉で、19世紀後半、主に東アジア・東南アジアに渡って、娼婦として働いた日本人女性のことを指す(「唐」は、広く「外国」を意味する)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/からゆきさん
女性たちは長崎県島原半島・熊本県天草諸島出身が多く、海外渡航には斡旋業者(女衒)が介在していた。
村岡 伊平治(むらおか いへいじ、1867年11月5日(慶応3年10月10日) – 1943年(昭和18年)頃)は、明治から昭和初期にかけて南方(シンガポール、マニラ等)で女衒(人身売買業者)や女郎屋経営、開拓事業などをしていたとされる日本人[1]。代表的な女衒と考えられているが、『自伝』以外にほとんど史料がなく、実像は明らかではない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/村岡伊平治
からゆきさんも九州の出来事である。明治維新は江戸時代における善悪の判断を完全に破壊した。その結果、明治維新の後の日本人は善悪の判断を下せなくなkった。
その証拠がからゆきさんの存在である。上記の村岡は日本人女性を売買して良いか悪いかを判断できなくなった。だから、村岡は日本人女性を売っただろう。
日本神話
日本神話では、村人は彼ら自身の娘をヤマタノオロチ(外国人の隠喩だろう)を売った。にも関わらず、村人はなぜか被害者として振舞った。俺の憶測によると、日本神話の舞台も九州か山口県あたりであるように思える。
2:大栗博司と村山斉と日本人
国際化や多様性と地球化
大栗や村山は国際化や多様性という名の下で、彼らは日本人のお金を白人に渡してきた。
続きは「沖縄科学技術大学院大学」から
キリスト教の概念を押し付ける
大栗博司や村山斉は日本人に男女平等を強制的に押し付けてきた。しかし、その概念はキリスト教由来である。大栗や村山がバカなところは彼ら自身の行為がキリスト教由来であることを自己認識できないところである。
キリシタン大名ですら彼ら自身をキリスト教徒と認識していたが、現代の科学者はその事実すら認識できない。彼らは、笑えることに、彼ら自身を無宗教か何かであると認識しているように見える。
男女平等も人権も寛容も受け入れもすべれキリスト教の概念である。
日本人が侮辱されても何も言わない
白人が日本人やその他の有色人種を侮辱するとしても、大栗や村山は何もいわない。黒人が黒人奴隷を見て見ぬふりしたことに似ている。日本人の学者気取りは日本人を間接的に生贄に捧げ用としてきた。
なぜなら、大栗や村山は白人の機嫌を損ねることを恐れた。
イヌイットの虐殺について
大栗や村山は多様性や多文化共生を賛美する。しかし、アメリカモンゴロイド人種やイヌイットから見ると、それは成功でなく、失敗である。大栗や村やmは白人の視点で歴史を語ってきた。
カナダのイヌイットは現在でも虐殺されているのに、大栗や村山はそれを見て見ぬ振りをして、多様性や多文化共生を賛美している。これは黒人が黒人奴隷を見て見ぬ振りをしていたことに似ている。
大栗や村山の行為は黒人やユダヤ教徒による黒人奴隷やヒトラーの賛美である。



奴隷状態と家畜状態
アメリカ大陸は君らモンゴロイド人種のものである。君が石油や食料を白人から購入する。この状態が狂っている、奴隷状態であると思わないのか?なぜ君は食料や石油をアメリカモンゴロイド人種から購入しないのか?
結局、大栗や村山は家畜や奴隷の概念すらないので、彼らは彼ら自身が家畜や奴隷にされてることすら認識できない。なぜ白人がアメリカ大陸に存在するか?なぜアメリカ先住民でなく白人が
3:宗教と信仰と文明の重要性
善悪の判断を下せない
宗教の重要性は善悪の判断を教えることである。明治維新のあと、大栗や村山は彼ら自身の宗教や文明を失った。
行為の正当性の欠如
宗教や文明は行為の正当性を与える。行為の正当性とは、例えば、奴隷貿易は良いか悪いかである。コーカサス文明では、それは長い間正当化されてきた。
善悪の判断を下せないので、歴史も存在しない
善悪の判断の欠如は歴史にも関係する。例えば、黒人奴隷やアメリカ大陸の多様性を善とするか、悪とするかでは、俺らの歴史は異なる。
白人崇拝と機嫌を損ねないこと
大阪大学の菊池誠は宗教や文明を暗にバカにしてきた。その結果、彼は白人崇拝と白人の機嫌損ねないことを彼自身の宗教とした。俺はこの状態を悪いと審判する。