何のために生きて何のために死ぬべきか?

俺らの信仰
家紋 wikipedia

 これは「死生観」の続き

 人間は物質的世界から分岐した存在である。分岐の後、人間は戸惑う。なぜなら、物質的世界には、生きる意味も目的も存在しない。だから、人間は何のために生きて何のために死ぬのかを求める。

例えば、妻や子供のため、国家のため、東洋文明のため、宗教のため、学問のため、先祖のため、友人のため、子孫のためなどが存在する。そして、この感情は動物的本能でなく、ひどく人間的感情である。生存と死の目的がきちんと定まらない時、君は君の人生や君の命が無駄であるように感じる。

 何のために、俺はいままで生きてきたのか?

俺も君もこの種の無力さを回避したい。だから、ここでは、俺は生存と死の目的を提示しよう。

1:国家と学問、文明

 報道班員、日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて。僕なら体当たりせずとも、敵空母の飛行甲板に50番(500キロ爆弾)を命中させる自信がある。僕は天皇陛下のためとか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。最愛のKA(海軍の隠語で妻)のために行くんだ。命令とあらば止むを得まい。日本が敗けたらKAがアメ公に強姦されるかもしれない。僕は彼女を護るために死ぬんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだ。素晴らしいだろう。

— 関行男、マバラカット基地近くのバンバン川にて[48]

https://ja.wikipedia.org/wiki/関行男

 君は国家や学問のために死なない。現在の日本国を見れば、君はこんな馬鹿な国家のために死ぬべきでない。日本人も日本国も白人になりたくて、白人にちやほやされたくて仕方がない。

日本人にとって、日本国や学問とは白人にちやほやされるための道具でしかない。なぜ上記の日本人は無残にも死んでしまったのか?現在の日本人のクズさ、特に日本人の学者のクズさを見ると、俺も君もこんな国家のために死ねない。

 文明と君の死:国家や学問や文明のうち、死ぬ価値があるのは自己の文明である。文明のために死ぬことは陽でないが、陰ともいえない。

 国家や学問や文明の中で、君が命をかけれるのは文明である。これはなぜ志村五郎や谷山豊や他の科学者や数学者が数学や科学を「彼ら自身で」研究してきたかに関係する。文明には先祖の強い遺志が残されている。

君はキリスト教徒の西側白人による彼らの価値観(キリスト教は中東地域発祥)の押し付けと対峙するために、君は君の命をかける。なぜなら、もし君がそのために命をかけれないならば、君は彼らの遺志を裏切り、彼らの人生を無駄にする。もし俺らが東洋文明を守るために、命をかけないないならば、なぜ志村やその他の日本人は科学や数学を彼ら自身で研究してきたか?

俺らはこの先も何かを自力で創造する必要があるだろうか?俺らは人間の本質に関係したものを自己の創造や義務と認識する。だからこそ、命をかけることに価値が存在すると考える。

2:妻や子供、先祖と子孫、皇帝

 他者と陰陽:妻や子供、先祖と子孫、皇帝のために命をかけることは陽でない。ただし、これは個人の自由の範囲である。

 君が日本人女性の馬鹿さを見るとき、君はこんな猿のために君の命をかけたいと思わない。たとえ君が君の命を女性のためにかけるとしても、女性はパンパンになるだろう。猿は白人ハーフの子供を産んで自慢しようとするかもしれない。

これは先祖や子孫にも言える。君の息子が必ずしも良い人間であるかはわからない。どうしようもないクズが生まれてくるかもしれない。そのとき、君は君の命をもっと大きなもの、もっと人間の本質に関係するものに捧げたいと考えるだろう。

3:宗教と信仰

 信仰における死と陰陽:この信仰者がこの信仰のために死ぬことは陽である。ただし、人命は軽視されない。

 一見すると、信仰のために死ぬことは馬鹿馬鹿しい。しかし、これは間違いである。研究室における学生は研究のために自殺したり、真面目な会社員は会社のために体を壊した。あるいは、彼らは妻子を守るためにぼろぼろになって働いてきた。

俺らが何のために生きて、何のために死ぬのかを「真剣に」思考するとき、君が好む信仰のために生きて、君が好む信仰のために死ぬことはそれほど悪くない。なぜなら、「君の納得」と「君の信仰」がそこに存在する。信仰のために死ぬことは最終的な選択であるだろう。

君が君の人生において色々なことを経験して、その経験の全てがくだらないと感じる。そのとき、この信仰は君を救うだろう。信仰のために死ぬことはあくまでも最終的に残った目的である。

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