ここでは、会話における正当な行為を提示する。君は下記の取り決めに従って、会話を進める。会話行為における取り決めは食事行為における取り決めに等しい。
君が女や朝鮮人や日本人の学者気取り(菊池誠など)を見る時、君は彼らが会話できない対象であると審判する。朝鮮人の球蹴り選手が球蹴りの取り決めを認識できないように、女や朝鮮人や日本人の学者気取り(菊池誠など)は会話における取り決めを認識できない。
その結果、女や朝鮮人や日本人の学者気取り(菊池誠など)の会話行為はまるでくちゃらーと同じである。この信仰では、君は以下の手続きに従って会話行為を試みる。
1:会話行為における陰な行為
君が女や朝鮮人や日本人の学者気取り(菊池誠など)と会話できないのは、彼らが上記の行為を繰り返すからである。彼らの会話はテコンドーサッカーと同じである。彼らの会話はくちゃらーと同じである。
さて、君は上記を正当化する。君は取り決めのない会話をクチャらーとみなすと、動物はクチャーラであるので、君はくちゃらーを動物的であり、分岐大原則により、陰と判断する。だから、君は君の会話行為をくちゃらーでないように操縦する。
実際、未開人になればなるほど、会話の中に取り決めがなくなる。くちゃらーの不快さが動物的、つまり動物から分岐されていないように、会話のくちゃらーの不快さも動物のそれに近い。
君は悪口や愚痴を社会性の欠如と審判して、その欠如を陰と判断する。批判行為は他者に対する損害と審判して、それを陰と判断する。
2:陽な会話行為
審判や判断をそれぞれ蟲やヌシに対応させると仮定すると、それらは物質的世界から分岐されている。それは君にとって良いまたは陽である。だから、君は意志表現行為及び審判表現行為、判断表現行為を陽と判断する。