日本人は西洋人は狩猟民族であるので個人主義であり、日本人は農耕民族であるのでと言ってきた。しかし、これは完全なる間違いであり、むしろ逆である。日本人は未開であるので、彼らは狩猟民族である。
だから、日本人は政治や外交の概念を持ってこなかった。
1:狩猟民族とは

具体例:縄文人やブッシュマン(サン族)、ヤマノミ族、日本人の学者気取り。
組織や社会の概念がない
狩猟民族は個人主義であるので、彼らは組織や社会の概念を持たない。彼らは社会を認識できないので、彼らは社会性を持っていない。日本人が社会や組織を感じているのは、群れである。
日本人は社会性や組織の概念をもたないので、彼らは狩猟民族のように無防備である。
組織がないので、政治や外交の概念もない
狩猟民族は組織や社会を認識できないので、彼らは政治や外交を認識できない。さらに、彼らは組織としての義務や責任を認識できない。だから、彼らは批判されると、自由やそれは俺じゃないと言い逃れする。
関西における同和の無法や日本列島における朝鮮人の無法を見ると、日本人は法律の意味を認識できないように見える。関西では、法律が全く機能してないし、朝鮮人も好き放題やってる。日本人はそれをぼーっと見ている。
よくて、日本人は朝鮮人や同和を正しく批判している。しかし、彼らは誰に向かって何を批判しているのか明確でなく、彼らは彼ら自身の政治組織を形成しようとしない。狩猟民族は組織の概念をもたないので、彼らは政治や外交を真理の主張か何かであると勘違いしているようである。

日本人は政治や外交が苦手でなく、彼らは政治や外交の概念を認識できない。彼らは不安を感じると、喚き騒ぎ、愚痴や不平不満、不吉な予言や未来予測や実況中継を繰り返す。そうして、誰かに何かをなんとかしてもらおうとする。
彼らはその種の行為を政治的かつ社会的行為と感じるので、彼らはいつまでも政治や外交を認識できない
宗教や文明がない
狩猟民族は宗教や文明の概念を持たない。なぜなら、彼らは人間社会を形成する必要がない。狩猟民族はお金や性や死生観を必要としない。
中世欧州では、教会の影響力が異常に強かった。なぜなら、キリスト教は民をまとめて、人間社会や組織を形成する能力を持っていた。
2:農耕民族とは

具体例:モンゴル人。西洋人は日本人でなく、モンゴル人に近い。ただし、俺は西洋人を農耕民族と認識しない。
組織主義
農耕民族は農業や生産活動のために彼ら自身の組織を重視する。さらに、彼らは組織としての義務や責任を重視する。
宗教や文明を必要とする
農耕民族は組織や社会を必要とするために、民を統合する必要が有る。その結果として、農耕民族は民の統合のための宗教や文明を創造してきた。
性規範や死生観を重視する。
農耕民族が組織や社会を形成する時、農耕民族は性規範や死生観を創造する必要が有る。なぜなら、人間が組織を作る時、性の問題や死生観の問題は避けて通れない。だから、農耕民族は宗教や文明による性規範や死生観を持つ。
性規範や死生観を適切に与えられない時、人間は民を統治できない。だから、農耕民族は組織を統治する正当性を与える性規範や死生観を絶対に形成する必要が有る。
3:大和民族(日本人)の歴史

神道
神道は非常に狩猟民族的な宗教、または信仰である。神道は民をまとめて、人間社会や人間組織を形成する能力を一切もたない。死生観も救済も個人的なものである。
俺は神道を個人的に好む。ただ、残念なことに、狩猟民族は農耕民族や牧畜民族の宗教に勝利できないだろう。なぜなら、彼らの宗教は人間社会や人間組織を形成して、強い社会や強い文明を作り上げる宗教である。
実際、神道は人間社会を形成する能力を持っていないので、神道を好む日本人は政治や外交の概念を持っていない。なぜなら、政治や外交は社会の形成の後に生じる行為である。神道は社会を作らないので、たとえ日本人が神道を信仰するとしても、日本人は政治や外交の概念を持つことができない。
仏教
仏教は神道よりもより農耕民族的である。しかし、俺は仏教ですら狩猟民族敵であると感じる。具体的には、仏教における死生観や悟りは個人の救いに焦点を当てている。
俺にとって、宗教の役割とは人間組織や人間社会の形成である。宗教が与えるべき死生観とは個人的な救済や個人的な死後の世界ではなく、あくまで社会的死生観や社会的救済である。
仏教が日本人にうまく適合したのは日本人の狩猟民族性と仏教における個人的救済が一致していたからだろう。仏教は神道よりもとり農耕民族的であったが、死生観や救いの概念は狩猟民族的である。実際、インド人は農耕民族に見えない。

