人間の本質と形式

俺らの信仰
https://ja.wikipedia.org/wiki/ガイウス・ユリウス・カエサル

 この信仰では、君は形式は人間の本質を教えないと認識する。数学や理論物理は形式の権化である。この信仰では、それらは人間の本質を教えないと認識する。

つまり、たとえ君が科学や数学をやるとしても、君は人間の本質を認識できない。君は人間が何であるかを認識できない。もし君が人間の本質を渇望するならば、君はこの信仰の信仰者になる。

0 準備(分析的思考)

 君が人間の本質を思考する時、君は分析的思考を必ず採用する。分析的思考とは対象それ自体や対象の性質それ自体を認識する思考である。対象を分析するためには、対象の対象化が必要である。

印象付ける例として、例えば、君が人間の肉体のデザインを思考する時、君はデザインそれ自体に着目してその他の性質を一度無視する。その時、君は対象の要素や両親(先祖)や言語を話すことを無視する。俺がデザインについて語る時、もし君が対象の先祖について語るならば、その話題は数学(デザイン)から社会(先祖)や生物学(出産)に移ったことになる(関係性思考)。

君が関係性思考を採用する時、君は人間の本質はデザインに無関係であるという結論いつまでを下せない。関係性思考を採用する人間は、君が対象のデザインについて語る時に、彼らは先祖や要素や言語について反応する。しかし、それらはデザインに関する話でない。

1:形式〜人間の肉体の形は人間の本質でない〜

 形式の代表例とは対象の形である。人間は二つの対象が同じ形を持つ時、人間はそれらを同一であると審判する。しかし、この思考には、少なくとも1つの問題が存在する。

その問題とは上記の考えは人間それ自体と人間の形を模した彫刻やロボットが同じであると認識されることである。もし形が人間の本質であるならば、君が彫刻やロボットを破壊する時、その行為が殺人行為として罰される。君はこの罰に反対するだろう。

つまり、君自身も人間の本質は形でないと感じてきた。だから、もしxが人間と同じ形をもつ対象であるなら、xは(常に)人間であるという推論行為は間違いである。その例外は人型ロボットや人型彫刻である。

 簡単にいうと、君は肉体の形から人間の本質を推論によって導けない。たとえ君が人間の肉体の形を研究するとしても、君は人間の本質を認識できない。なぜなら、形に対する研究行為は同じ形を持つ彫刻や人型ロボットに対する研究と実質的に同じである(分析的思考を思い出す)。

たとえ君が彫刻の形やロボットの形を(数学的に)研究するとしても、君は人間の本質を知ることができないだろう。

2:正当化

 上記の正当化は分岐的大原則による。この信仰の目的は分岐である。君は君の肉体を非分岐的状態から分岐するように操縦する。

では、ここで非分岐的状態とは何であるだろうか?それを知るために、君は動物を観察する。例えば、犬のぬいぐるみに嫉妬する犬を想像しよう。犬は下等生物であるので、この生物は犬の本質を犬の形と認識した。

その結果、飼い主が犬のぬいぐるみを可愛がるとき、犬はそのぬいぐるみを犬それ自体と認識してそれに嫉妬する。つまり、非分岐的生物は対象の本質を対象の形と認識する。この状態が非分岐的状態である。

 この信仰の目的は分岐である。だから、君は人間の本質を人間の形と認識しないように、君の肉体を操縦する。

 

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