善悪や正当かは信仰の目的によって判断されるか?

俺らの信仰
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 君が善悪の判断を下す正当性を獲得したいとき、君はある対象が正当であるかを信仰の目的のみによって判断されるか知りたい。たとえば、この信仰での目的は俺のヌシの復活である。

俺のヌシの復活のために、分岐が必要である。だから、分岐は基本的に正当であると判断されて、非分岐的な何かは正当でない、非正当であると審判される。しかし、善悪の判断は信仰の目的のみによって決められるのだろうか?

俺は善悪の判断はもっと生得的なものであるように思える。つまり、君が世界に対するある種の違和感や嫌悪感を持ち、その感情(この信仰では、それは情蟲)が善悪の判断を作り出しているように見える。以下で、何が善悪の判断を作り出しているかを憶測しよう。

一般的な意味での善悪の判断と目的

 善悪の判断は物質的世界に存在しない。だから、君は善悪の判断を人工的に創造する。その時、善悪の判断に関する正当性をめぐる争いが発生する。

キリスト教における男女平等

 男女平等の平等とは、キリスト教的な価値観である。キリスト教では、人間は神の下で皆平等であると定義された。だから、平等という状態は悪でなく善であった。

しかし、白人が男女に関する結果平等を求めるとき、君はその平等に違和感を覚える。しかし、キリスト教的世界では、男女公平はキリスト教の目的(神との契約)に反する。だから、たとえ君が結果平等に違和感を覚えるとしても、白人は男女平等を達成しようとする。

この信仰における善悪の判断

 この信仰では、分岐が信仰の目的であった。だから、分岐という信仰の目的を妨害するものが悪であった。対象xが存在して、もし対象xが分岐(信仰の目的)に反するならば、その対象xは正当でない。

仏教におけるお経と目的

 日本人の科学者気取り(菊池誠)は災害におけるお経を無意味であるバカにしてきた。彼らは坊主の行為の目的を災害の解決(災害によって生じた被害の解決)と勘違いしてきた。彼らはたとえ坊主がお経を読むとしても、がれきは撤去されないと考えてきた。

しかし、もしお経を読む行為の目的が災害の処理でないならば、その行為は別に悪でない。科学者気取りは坊主の行為を災害の解決と自分勝手に誤認するので、彼らは坊主の行為を無意味と馬鹿にする。俺もまたもし坊主がお経を読んで災害処理をするつもりならば、その行為は災害を解決という目的を達成しないので、坊主をバカにするかもしれない。

しかし、坊主は災害の解決を目的としていない。だから、坊主の行為は正当でないと言えない。なぜなら、ある行為の正当性はその行為の目的に関係する。要するに、ある行為の正当性、つまりある行為が正当であるかはその目的が達成されたかで照合される。

善悪の判断は宗教や信仰、またはそれらの目的のみによって与えられるか?

 物質的世界には、目的が存在しない。俺らは物質的世界から分岐したので、俺らは目的を創造できる。創造された目的は定規の役割を果たして、ある存在や状態や行為を測定する。

しかし、俺がある状態は非分岐的でないので正当でないと正当化する時、俺はある種の違和感を覚えた。それはなぜある状態はこの信仰の目的に反するので、正当でないのかという違和感である。この種の正当化に関する文では、ある状態が信仰の目的で測定されたり、照合されたりする。

もしその状態が信仰の目的に照合しないならば、その状態は本当に正当でないのか?俺は物事を正当性を世界に対する違和感や俺の自然な認識や内なる情熱に求めたい。俺がある状態を正当であるか内科を判断するとき、俺は分岐に対する照合のみで機械的に判断したくない。

 その状態は間違いである。なぜなら、俺の内なる認識や内なる情熱や俺のヌシがそう言っている。俺はこういう風に判断したい。可能ならば、このような判断が信仰者同士で共通的に認識されるように、、、。

遺伝子

 遺伝子の中には善悪の判断が存在しない。遺伝子による善悪の判断の付与はあくまで条件であり、それは土地と同じである。遺伝子は物質的世界に属して、それは非分岐的対象である。

その非分岐的対象が分岐された対象である善悪を作り出すのだろうか?俺はこの意見に反対である。

情蟲

 俺がある対象に対して強烈な違和感や不快感を覚えるとき、俺はその違和感が善悪の判断に結びつように感じる。そして、この違和感はおそらく遺伝的な性質にある程度関係する。違和感や不快感は物質でなく蟲、つまり情蟲である。

善悪の判断には、情蟲が関係している。しかし、たとえ君が情蟲の全てを知るとしても、君は善悪の判断を情蟲の中に見いだすことができない。

ヌシ

 俺は俺のヌシが善悪の判断を創造すると強く感じる。物質→情蟲の生起→ヌシ→ヌシによる違和感や認識→善悪の判断→信仰の発生と信仰の目的の発生→目的に対する照合。俺は善悪の判断は俺の認識や内なる情動に関係しているように思える。

俺は善悪の判断は単なる目的との機械的な照合でないと感じる。当然、目的を作るのでが、内なる衝動であるという考えは考慮されるけれども、、、。

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