損害及び刑罰の関係と宗教(信仰)の関係

俺らの信仰
https://ja.wikipedia.org/wiki/切腹

 宗教は刑罰に関係する。損害が発生する時、刑罰がその主体に課される。この時、どのような存在や状態や行為が損害であるかが問題になる。

一般的に、宗教は刑罰を定めて来た。刑罰が必要になる時、損害が定義されなければならなかった。だから、宗教が何が損害であるかを定義しなれば行けなかった。

この信仰でも、刑罰や損害がこの信仰によって認識される。

1 信仰と刑罰

 認識 刑罰とは、人間が他者や自己に損害を与えた対象や主体を罰する行為である。

 主体には、君自身(君のヌシ)も含まれる。上記の共通認識では、刑罰の主体は動物でなく人間である。そして、損害を与える主体は人間でなく対象であるので、物質もその対象に含まれる。

 取り決め この信仰が刑罰とその正当性を君に認識させる。

 バラバラのホモ・サピエンスが人間社会を形成する時、刑罰の正当性が問題になる。例えば、たとえ君が物質的世界を調べるとしても、切腹が正しいかlingchiが正しかはわからない。だから、どちらの刑罰が正しいかは宗教や文明が与える。

切腹とlingchiの場合は中華文明によって与えられる。一般的に、誰がどのような方法で他人を罰するかが問題になる。この信仰では、刑罰の正当性はこの信仰によって与えられる。

2 刑罰と損害

 認識 損害とは、害を君に与える対象や主体である。

 経験則(蟲と損害) ある存在や状態や行為が存在する。君はそれを知覚する。君の蟲がその知覚によって生成される。君はその蟲を認識して、その蟲を使用して、その存在や状態や行為が損害かどうかを審判する。

 もしxが蟲を持たない対象であるならば、xは損害を審判・認識できない対象である。

 何が害であるか非常に難しい。ここでは、何が害であるかは省略する。俺は蟲を用いて害を認識する。

例えば、俺の蟲的世界の中に、情蟲や違和感やおかしさが生じるとき、これらの蟲は損害に関係しているように見える。痛いという蟲も同様である。

何が害であるかは蟲に関係する。というよりも、蟲が損害を導いているように思える。違和感や痛みという蟲が生じるからこそ、損害が認識される。

 取り決め 損害が刑罰を君に認識させる。損害は蟲を用いて認識される。

 損害が取り決められた後、刑罰が発生する。だから、刑罰は損害に依存するので、何が損害であるかが重要である。損害に対する共通認識なしに、刑罰は機能しない。もし損害に関する共通認識が形成されないならば、刑罰もまた形成されない。

3 信仰と損害

 取り決め この信仰が損害(蟲を用いた損害の認識)とその正当性を君に認識させる。

 信仰が損害を与えて、損害が刑罰を導く。信仰→蟲に対する共通認識の形成→蟲を用いた損害の認識→刑罰。

 経験則 もしxが宗教(信仰)を持たない対象であるならば、xは刑罰を認識できない対象である。

 君が日本人の大学教員気取り(菊池誠など)を見る時、彼らは刑罰を認識できないように見える。例えば、契約相手が菊池に刑罰を与えようとする時、菊池は癇癪を起こしてヒトラーやナチスや学問の自由や大学の自治を叫んで契約相手を侮辱する。

この種の反応に対して、君は菊池は刑罰を認識できないと審判する。なぜなら、菊池は他者に対する損害を認識できないので、損害から導かれる刑罰を認識できない。宗教は社会性を人間に与え、損害や刑罰に関する共通認識の形成を促す。

しかし、菊池は狩猟民族であり、社会性を形成できないので、彼は損害も刑罰も認識できない。菊池の刑罰に関する感覚は罰による彼の不安に対する恐れと恐怖でないかと俺は憶測する。

 信仰→蟲に対する共通認識の形成→蟲を用いた損害の認識→刑罰であるので、信仰が存在しないとき、→の後の損害の認識や刑罰が導かれない。その結果、信仰を持たない対象は刑罰を認識できない対象である。

 認識 きくまことは、刑罰を認識できない対象である。きくまこ反応とは、ある対象が刑罰を課されそうになる時に、頓珍漢かつ衝動的に反応する行為である。

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