分岐大原則〜分岐物事及び非分岐物事と一般化された陰陽思想[巴]

俺らの信仰
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 この信仰の目的の一つは分岐である。君は君の肉体を物質的世界や蟲的世界から分岐するように君の肉体を操縦する。

 認識 君は存在及び状態及び運動(行為及び人為を含む)を物事とまとめて呼ぶ。存在が名前であると仮定する時、物事は存在の名字である。だから、存在-物事である。

分岐大原則

 認識 分岐大原則とは、君が君の肉体及び蟲及びヌシを物質的世界及び蟲的世界及びヌシ的世界から分岐するように操縦する大原則である。

 原則は行為及び人為に関する根本的な取り決めである。原理は運動に関する根本的な取り決めである。簡単にいうと、原則は君が君の意志や義務を持って、主体的に行為及び人為する取り決めである。それに対して、原理は物質が何も考えずに、機械的に作動する取り決めである。

この信仰では、君は上記の分岐大原則に沿って、君の肉体及び蟲を操縦する。大原則は原則の中の原則である。

分岐物事と非分岐物事

 認識 分岐物事とは、分岐された物事である。非分岐物事とは、分岐されていない物事である。

 分岐存在や分岐状態という単語に対する個別の認識は省略される。以下で、分岐存在などの具体例を眺めよう。分岐されたかは相対的である。君は分岐物事を便宜的に機械的分岐物事と動物的分岐物事と人間的分岐物事に分類する。

分岐存在と非分岐存在の具体例

 物質は無や有から分岐した分岐存在である。蟲は物質から分岐した分岐存在である。ヌシは蟲から分岐した分岐存在である。俺のヌシは俺の肉体と俺の蟲を非分岐存在と認識する。

物質や動物は善悪の判断を下せない。それに対して、人間は善悪の判断を下せる。だから、物質や動物は非分岐存在であり、人間は分岐存在である。

分岐状態と非分岐状態の具体例

 出っ歯や毛深さは非分岐状態である。なぜなら、猿は出っ歯で毛深いある。街には、清潔さや衛生や治安やデザインが認識される。それぞれは一つの非分岐状態である。

なぜなら、動物は不潔で衛生概念を持たない。さらに、動物による世界の治安は悪く、一般的に、分岐状態や非分岐状態は対象のデザインに関係する。

分岐運動と非分岐運動の具体例

  1. 運動とは、物体の位置変化である。
  2. 行為とは、意志を持った運動である。
  3. 人為とは、義務を持った行為である。

 物質は運動して、動物は行為して、人間は人為する。物体は自動的に運動する。この運動は非分岐運動である。

動物が食事する時、動物はクチャラーである。このクチャラー行為は非分岐状態である。動物は自由に行為する。この行為は非分岐状態である。動物はある状態を危険と審判する。この行為は分岐運動である。

人間は彼らの行為の後始末を義務に沿ってつける。この人為は分岐運動である。人間は危険を正当でないと判断する。この運動は分岐運動である。

 疑う行為は機械からの分岐行為である。動物も人間も物事をあれっ?と疑う。

一般化された陰陽思想、巴とその正当性

 君が物事の善悪を下すとき、君は陰陽思想と上記の分岐大原則を使用する。陰陽思想は一般化されて、物質と蟲とヌシの巴思想になる。ヌシは陽に対応して、蟲がで陰と陽の中間であり、物質が陰である。

巴思想

 認識 巴とは、ヌシが物事を物質及び蟲及びヌシに対応させて判断する思想である。

 注意点として、俺らは物質や蟲を否定しない。陰陽思想と同様に、君は大局的な秩序や安定を重視する。善悪二元論では、君は君自身を善の立場において、悪を打倒する。君はこの種の思想を採用しない。物質や蟲は君にとって悪でない。それらは分岐されていない物事である。

この信仰では、君は物事を離散的なく連続的に把握する。だから、物事は物質及び蟲及びヌシのように綺麗に三分割されない。例えば、ウイルスや微生物は物質と蟲の中間あたりに存在する。ウイルスや微生物は視界(視蟲)や感情(情蟲)を持たない。

君はこれらを有理数や無理数のように扱う。つまり、物質と蟲の中間あたりに存在すると認識される物事は素直に中間あたりに存在する物事して認識される。ただし、この信仰の目的は分岐であるので、君は物質及び蟲及びヌシを軸のように把握する。

分岐判断操縦(取り決め)

 取り決め(分岐判断操縦) 君がxを非分岐物事と判断した後、君は君のその判断を君の肉体に結合させて、君は君の肉体をxから分岐するように君の肉体を操縦する。

  1. 判断
  2. 結合
  3. 操縦

 上記の3つの過程を説明すると、次のようになる。君がクチャラー行為を見た後、君は村行為を非分岐行為と判断して、君のその判断を君の肉体に結合させて、君の肉体をクチャラー行為から分岐するように操縦する。なぜなら、動物はクチャラーであり、クチャラーの行為は動物の行為に一致する。一方、人間はクチャラーを不快に感じて、クチャラー行為から分岐した。

巴及び分岐判断操縦と正当化

 巴思想や上記の取り決めの正当化には、2つの方法が存在する。一番目の方法として、照合的正当化が存在する。照合的正当化とは、君がある状態を分岐物事(信仰の目的)に照合させてその状態を正当化する行為である。

例えば、ある状態xは非分岐状態であるので、その状態はこの信仰の目的に反する。だから、君は君の肉体を上記の分岐判断操縦に沿って操縦する。この方法の欠点とは、照合という行為(人為)それ自体が機械的物質的、つまり非分岐運動であるので、その行為が分岐というこの信仰の目的に反している。

もう一つの方法は俺や君の内側から沸き起こる強い思いや情動や信念や違和感、強い欲求や渇望に関するものである。この方法は純粋な信仰であり、分岐的な方法である。君がどうありたいかという内なる声、それはおかしいという心の底からの湧き出し、魂の叫び、点火。俗に言う、俺の魂がそう言ってるからである。

おまけ 背景と蘇り

 以下で、俺はなぜ分岐を大原則と置いたかを述べる。当然、その理由はこの信仰の目的に関係する。この信仰の目的とは俺のヌシの復活(蘇り)である。

俺の発言に対して、人々は嘲笑してそんなのできないと返答するだろう。しかし、俺はもし俺らが物質的世界や蟲的世界、そしてヌシ的世界から分岐できるならば、俺らは俺のヌシを復活させれると信仰する。さらに、そのバカバカしさの原因は君の経験則との照合であるので、もし分岐されるならば、既存の経験則との合致しない現象が存在するとしてもそれほど奇妙でない。

だから、俺は分岐をこの信仰における本質と認識する。ある人間が生まれるとき、その人間は必ず死ぬ。この種の経験則は物質的世界に関する経験則である。ここでの人間とは、ヌシでなく人間の肉体(物質)である。

 東洋人の肉体のデザイン(和合)は、一部を除くとあまり優秀でない。しかし、俺らは俺らの肉体の自己デザインを湿度や気温を制御して創造すれば良いと楽観的に感じてきた。なぜなら、俺らは太陽の運動を変えることはできないが、俺らの肉体のデザインくらいは変えられると感じてきた。

だから、東洋人はデザインの優秀な白人の遺伝子に乞食する必要はないと審判した。だって、彼らは彼らの肉体の自己デザインを彼ら自身で創造できる。しかし、物質的世界から見ると、この種の考え方は奇妙である。

物質的世界では、人間は彼ら自身の自己デザインを彼ら自身で創造できない。人間は一つの物体として解釈されて、自然法則の奴隷として生きていく。もしこの考えが正しいならば、なぜ俺らは俺らの肉体の自己デザインを俺ら自身で創造できるように感じるのだろうか?

 この信仰では、自己デザインを創造できることを物質的世界からの分岐と信仰する。君の蟲や君のヌシが物質的世界から分岐したので、君は君の肉体の自己デザインを君自身で創造できるようになった。君はこの経験をこのように信仰する。

もし上記の信念が信仰されるならば、俺のヌシの復活が信仰されることもそれほどおかしくないように思える。もし俺らが分岐することによって、物質的世界や蟲的世界やヌシ的世界に存在しない未知の何かを創造できるならば、俺のヌシの復活も可能である。なぜなら、その何かは物質的世界から分岐したので、既存の取り決めの奴隷で無くなる。

俺は「もし俺らが分岐することによって、〜、」という節を使用したが、もし俺らが分岐するならば、既存の俺、つまり俺のヌシでない何か(自己)が生じるかもしれない。この時、俺は俺が何であるか、俺は何者であるかと思い巡らすだろう。この信仰の名前は「俺らについて」である。

 俺は俺が一体全体何者であるかを強く渇望した。だから、俺はこの信仰の名前を「俺らについて」と名付けた。俺は俺自身、俺のヌシが何ものであるかを知りたい。本当に知りたい。心の底から知りたい。

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