ヌシに対する良くある勘違い

俺らの信仰
https://en.wikipedia.org/wiki/Spirited_Away

 この信仰では、俺はヌシという単語をしようしてきた。俺のヌシは俺それ自体であり、君のヌシは君それ自体である。しかし、信仰者の一部はヌシを誤って把握するので、俺は良くある勘違いを提示する。

ヌシという単語の由来は山のヌシや川のヌシのヌシである。俺の勝手な印象では、川のヌシのヌシの本当の意味とは、人間がある対象を厳密に定義できないので、人間は川に対してその本質を与えて定義したである。個体は定義されやすいが、液体や気体のような川や空の定義は難しい。

だから、人間は山や川にイデアのようなヌシを見て、そのヌシで川や山を定義(むしろ把握)しようとしたと俺は憶測してきた。要するに、ある対象が存在するとき、人間はヌシをその対象に与えてそのヌシで対象を把握する。君が名札による対象の把握を思い出す時、この種の思考はそれほどバカでないと審判する。

1 君のヌシは君の肉体でない

 人間の一部は自己の肉体を自己のヌシと錯覚している。しかし、君の肉体は君のヌシでない。車の運転手が車自身でないように、君のヌシは君の肉体でない。

君が女を観察するとき、君はこの種の錯覚に気づくだろう。例えば、日本人女性は白人男性を好むが、彼女らは白人男性の肉体(車体)を好んでいるのあって、白人それ自体を好んでない。言い換えると、この種の日本人女性はブランド高級車を好んでいるのであり、ブランド高級車の運転手を一切見ていない。

むしろ彼女らはブランド高級車それ自体と運転手を区別できないように見える。ホモ・サピエンスには、肉体とヌシを区別できる個体とそうでない個体が存在する。君は後者を昆虫と呼ぶ。

2 君のヌシは君の意識や視界でない

 人間の一部はヌシを意識と錯覚している。彼らは主体や自我を彼ら自身の意識であると錯覚している。しかし、意識はヌシでない。この信仰では、意識は蟲である。

日本人の学者気取りが主体や自我という時、彼らは彼らの意識を主体や自我と錯覚しているように見える(当然、自我や主体が意識それ自体を指すならば、問題がない)。なぜなら、彼らは彼ら自身の視界と世界それ自体を区別できない。君の視界はあくまでも視界であり、君のヌシでない。

車で例えると、君の視界はカーナビの画面や車の中に生じるホログラムである。車のカーナビの画面が車の運転手それ自体でないように、君の視界(視蟲)は君のヌシでない。

3 ヌシは把握される存在

 俺が小さい時、俺は俺のヌシを把握できなかった。当時の俺は肉体と俺のヌシすら区別できなかった。しかし、俺が成人した後、俺は俺の視界に気づいて、さらにその後、俺はヌシの存在に気づいて、自己のヌシを把握できるようになった。

俺は非常に驚いた。なぜなら、俺の視界は物質でなかった。俺のヌシも物質でなかった。この世界に物質でない何かが存在してきたことに俺は非常に驚いた。

さらに、俺は俺の視界(視蟲)と俺のヌシが全く異なる存在であることに気づいた。俺の視界は俺の脳に強く依存するが、俺のヌシはなぜ俺の肉体に宿っているかすら不明であった。これは俺の神秘体験であった。まさに世界が変わった!

 俺にとって、俺のヌシは物質のように知覚される存在でなかった。俺にとって、俺のヌシは俺の視界のように認識される存在でなかった。なぜなら、ヌシは俺の視界と異なり、物質に依存していない。

俺はヌシに対する動詞に迷った。だから、俺はヌシを把握する、またはヌシを信仰するという表現をしようした。この信仰では、ヌシは把握され、信仰される存在である。

なぜなら、ホモ・サピエンスの全てが彼ら自身のヌシを彼らの肉体の中に持ち、彼ら自身のヌシを必ずし把握できるとは限らない。俺はヌシに対する把握を他者に押し付けるべきでないと審判した。だから、俺はヌシを信仰される存在と信仰した。

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