中田敦彦YouTube大学のデタラメに対する批判と日本人の学者気取りの社会性の欠如

大和民族について

 俺が中田敦彦YouTube大学を見た後、俺は彼の発言は正確でないと審判した。しかし、俺が彼に対する日本人の学者気取りの批判を見た後、俺は彼らは社会性を認識できないと審判した。彼らの社会性の欠如は中田敦彦YouTube大学の情報の不正確さよりもひどい。以下で、俺が感じた違和感について述べる。

社会性の欠如の証拠

自分でやらない

 日本人の学者気取りは彼ら自身の動画を彼ら自身で作らない。彼らは誰かに動画を作らせて、あとから批判する。俺が研究室に所属していた時、この種の社会性を持たない人間が存在した。

この種の立ちんぼは自分で発表しないが、他人の発表にケチをつける。彼らは自分で論文を書かないが、他人の論文を批判する。彼らはサッカーの授業に参加しないが、仲間のサッカーのプレイを批判する。

この種の批判に対して、彼らは言論の自由を持ち出したり、雑用の忙しさやサッカーが苦手であるという事情の説明を繰り出す。

不公平性と一方性

 彼らの行為に関する問題は不公平と一方性である。日本人の学者気取りは彼を批判するが、彼らは彼ら自身が批判されない立場に身を置こうとする。もし彼らが中田を批判するならば、中田も彼らを批判するような対称性が重要である。

義務の欠如

 また、彼らは研究成果を彼ら自身で宣伝しようとしない。たとえトヨタが車を製造するとしても、広告や商品売買を軽視するならば、製造の意味は存在しない。トヨタが製造から広告、そして売買の成立までを担ってきたように、日本人の学者気取りもそれを担うべきである。

上記の学者も自分でやろうとしない。だから、彼らはいつまでも狩猟民族の未開人のままである。彼らは池の鯉や豚のような家畜と同じである。彼らは日本社会というサッカーの授業における立ちんぼと同じである。

タイトルとURLをコピーしました