なぜヌシが人間の本質であるか?

俺らの信仰
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 共通認識 人間の本質αとは、もしxが人間の本質αを持つ対象であるならば、xは人間であることを満足するαである。

https://oreranitsuite.com/2020/01/23/三柱について〜世界観と人間の本質と信仰の目的/

 君はヌシを人間の本質と信仰する。なぜ俺らはヌシを人間の本質と信仰するのか?以下で、俺はその理由について提示する。

君が何が人間であるかについて思考する時、君は人間に対する共通認識の困難さに接する。繰り返してきたように、胎児人間の形人間の要素は人間の本質を与えない。君が人間の本質をきちんと認識したいと渇望して、自然法則自由意志先祖意識、そして人種や肌の色に関して思考するとしても、君は人間の本質に到達できない。

上記の単語たちでは、人間と動物の違いすら区別されない。しかし、君は何が人間であるかをなんとなく認識している。だからこそ、君は胎児の中絶を殺人行為と認識しない。では、人間の本質とは何であるか?

 信仰が人間の本質を人工的に与える。

1:人間の本質とはヌシである

 共通信仰 君は人間の本質をヌシと信仰する。

 上記で、俺は知覚や認識でなく、 ‘ 信仰 ‘ という単語を使用した。なぜなら、俺らはヌシそれ自体を知覚や認識できない。しかし、俺らは各自のヌシをなんとなく把握している。だから、俺は信仰という単語を使用した。

ヌシは知覚や認識されない。ヌシは俺らにとって信仰される主体や対象である。この信仰では、君はヌシを人間の本質を信仰する。つまり、人間の本質とは信仰される対象または主体である。

この時、俺らは人間とそうでない対象をきちんと区別できる。俺は信仰という単語を使用したが、ヌシに対する信仰と神に対する信仰は互いに異なる。なぜなら、俺らはヌシを把握できるが、神秘体験を経験しない限り、神を把握できない。

 取り決め もしxがヌシを俺らによって信仰される対象であるならば、xは人間である。

 上記の引用により、人間の本質αとは、もしxが人間の本質αを持つ対象であるならば、xは人間であることを満足するαである。この信仰では、人間の本質はヌシである。だから、もしxが人間の本質(ヌシ)を持つ対象であるならば、xは人間であることを満足する人間の本質(ヌシ)である。

ただ、人間はヌシそれ自体を知覚や認識できない。だから、俺は人間の本質を持つという部分をヌシを俺らによって信仰されるという表現に変更した。もし君がある対象のヌシを信仰するならば、その対象は人間である。

君がヌシを人間の本質と信仰する時、君は人間の本質に関する共通認識の形成の困難さの問題を解決できる。

2:ヌシと分岐という世界観と目的

 分岐世界観と巴世界観では、ヌシは物質的世界や蟲的世界から最も分岐した主対象であった。そして、この信仰の目的は分岐であり、分岐大原則によって、分岐物事は正当である判断される。俺らは人間の本質をヌシと信仰する時、その信仰は分岐世界観及び巴世界観と分岐という信仰の目的にうまく一致している。

俺は2つの世界観と及び目的に対する人間の本質の一致を正当であると判断した。従って、俺らは人間の本質をヌシと信仰することはこの信仰では正当であると判断する。

3:復活の主対象としてのヌシ

 もし君が人間の本質をヌシでなく、君の肉体や君の蟲(視蟲など)と認識するならば、たとえ君の子孫が君を復活させるとしても、君のヌシは復活されない。俺が復活したいのは俺のヌシであり、俺の肉体や俺の視蟲でない。

もし俺が俺の肉体を俺自身を知覚するならば、俺の復活とは俺の肉体の復活である。もしそうであるならば、人体を複製すれば、俺が復活したことになる。もし俺が俺の視覚(視蟲)を俺自身と認識するならば、平行宇宙を製造すれば、俺が復活したことになる。

しかし、俺はこの2つのどちらも俺自身の復活と信仰しない。俺は俺の肉体や俺の視覚を人間の本質、つまり俺自身と信仰することに強烈な違和感を覚える。俺が俺自身や人間の本質を俺のヌシ(俺=俺のヌシ)と信仰する時、俺は俺の復活を違和感なく信仰できる。

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