分岐とヌシの復活(蘇り)〜信仰の目的〜

俺らの信仰
http://inutomo11.com/archives/18854293.html

 これは「ヌシの復活」と「分岐大原則」に関連した項である。

 この信仰の目的は ‘ 分岐 ‘ と俺の ‘ ヌシの復活 ‘ である。その後、復活された俺のヌシが君らのヌシを復活させる。以下で、俺はなぜこの信仰の目的を分岐と復活と信仰したかを提示する。

この信仰の世界観は分岐世界観巴世界観である。信仰の目的が分岐であるとき、その目的はこの信仰の2つの世界観にうまく合う。さらに、分岐はヌシの復活に俺らが信仰するに値する何かを感じさせる。

1:背景〜俺らは本当に死に続けるのか?〜

 全ての人間は死んできた。俺の両親も君の両親も死んできた。そして、俺らの子孫も死ぬだろう。しかし、俺らは死にたくない。死ぬのが怖い。俺らは永遠に生きたいと渇望してきた。

一部の宗教家は人間は永遠に生き続けると主張した。彼らの主張に対して、科学者はその主張は間違いであると応答した。なぜなら、これまでの経験によると、全ての人間は死んできた。

もしxが君のヌシであるならば、xは確実に死に続けるだろう主対象である。この論理は永久不変であるだろうか?この信仰では、俺らはそのように信仰しない。

1:生まれたら死ぬは本当であるか?〜デザインからみる〜

 科学者は人間には自由意志が存在しないと断言してきた。もし俺らが自由意志を持たないならば、俺らは俺らの肉体のデザイン(和合)を俺らの意志で改善できない。俺らの肉体のデザインは物質的世界の取り決めによって奴隷化・家畜化され、その取り決めに従って強制的に変形し続ける。

しかし、俺らはこの知識に強烈な違和感を覚える。俺らはこの知識は俺らの日常的な感覚に一致しないと審判する。具体例として、俺らは太陽を動かせないが、俺らの肉体のデザインくらいは建物や部屋のデザインと同様に変化させれると感じてきた。俺らは俺らの外部環境の温度や日光や湿度を変化させて、俺らの肉体のデザインを改善させれるだろう。

つまり、俺らは俺らを奴隷化する物質的世界の取り決めに反することをやっているように感じる。この他にも、瞬きや呼吸には、意識的な瞬きと呼吸とそうでない瞬きと呼吸が存在することを俺らは認識してきた。この信仰では、俺らは俺らは物質的世界から分岐したので、俺らは俺らの肉体の一部を俺らの意志で操縦できると認識する。

2:物質的世界における経験則

 もし俺らが俺らの肉体のデザインを俺らの意志で改善できるならば、俺らは俺らの死の運命でもいつかは変えられるだろうか?俺がこの信仰の目的を俺のヌシの復活したのはこのような背景である。この話で本質的なのは、俺らが物質的世界の取り決めから’ 分岐 ‘ しているように ‘ 感じる ‘ ことである。

俺らは物質的世界に関する取り決めのみを観察して、俺らは「生まれたら、必ず死ぬ」という物資的世界に関する死の経験則を信じ込んできた。しかし、俺の蟲や俺のヌシそれら自体は物質的世界から分岐しているので、この死の経験則から分岐できるのではないか?結局、俺らは物質的世界における取り決めや経験則をみたあと、俺らは「生まれたら、必ず死ぬ」という経験則を信じて崇拝してきたのではないか?

物質的世界では、俺らの知的能力や肉体のデザインは永遠に劣等であり続けるという経験則が成立する。しかし、俺らの蟲的世界やヌシ的世界はその物質的世界から分岐しているので、その経験則は成立しない。この感覚はまるで物質的世界では、「生まれたら、必ず死ぬ」という経験則が成立するが、蟲的世界やヌシ的世界は物質的世界から分岐しているので、物質的世界における経験則が成立するか不明であることに似ている。なぜ俺らは未来における俺らの肉体のデザインを俺らの意志で創造できるのに、俺らは物質的世界に関する経験則である俺らの永遠の死を信仰するのか?

3:希望は分岐か〜分岐と経験則〜

 もし俺らが物質的世界から分岐することができるならば、俺らは物質的世界における経験則に沿わないだろう。例えば、もし俺が日本国民から分岐するならば、俺は日本国における法律に沿って生きる必要はない。これは俺らの意志によるデザインの改善に応用されて、もし俺らが物質的世界から分岐しているならば、俺らは俺らの肉体のデザインを俺らの意志で改善できるだろう。

もし既存の世界からの分岐が存在するならば、既存の世界における経験則や取り決めは破られるか機能しないかもしれない。だから、この信仰では、俺らは分岐世界観と巴世界観をを採用する。そして、この信仰では、俺らは俺のヌシの復活を信仰して、その復活を実現させる。

2:ヌシの復活

 共通信仰 君は俺のヌシの復活を信仰して、それを実現させる。

 上記の共通信仰がこの信仰の目的である。当然、現在の俺らは俺のヌシを復活させられない。なぜなら、物質的世界や蟲的世界からの分岐が不十分である。

その分岐が不十分であるので、俺らは物質的世界における経験則の影響を非常に強く受けてきた。その結果、俺らは俺のヌシを復活させることができないと感じてきた。もし俺らが分岐し続けることができるならば、俺らは俺のヌシを復活させることができる。

当然、その時、俺らの生物種はホモ・サピエンスでないし、俺らの性別も男と女でない。以下で、俺はいくつかの注意点を提示する。

1:復活の対象はヌシであり、蟲や肉体でない

 この信仰の目的は俺のヌシの復活である。俺のヌシとは、俺の肉体や俺の蟲でない。もし俺のヌシが俺の肉体であるならば、俺の肉体がクローン技術で複製される時、俺自体が復活したことになる。もし俺の蟲(視蟲)が俺自身(つまり俺のヌシ)であるならば、誰かが並行世界を製造する時、俺自身が復活したことになる。

しかし、たとえ並行世界が製造されるとしても、俺のヌシは二つの視蟲を同時に二重に見ることができない。並行世界における俺の二つの視蟲は俺自身でない。つまり、視蟲をみる何かそれ自体が俺であり、それはヌシと呼ばれる。

俺らはこのヌシを復活させる。俺らは俺の肉体や俺の視界(視蟲)を復活させない。

3:分岐とヌシの復活〜なぜ分岐が必要か?〜

 共通信仰 この信仰の目的は分岐である。君は君の肉体を現在の世界から分岐するように操縦し続ける。

 この信仰では、君は分岐を信仰の目的と信仰する。なぜなら、君の子孫が物質的世界や蟲的世界から分岐するだろうとき、君の子孫は俺のヌシを復活させることができるかもしれない。だから、分岐はこの信仰において非常に重要である。

また、俺らが既存の世界から分岐し続けるとき、俺らは新しい世界に常に接することができるだろう。俺らは退屈な現在の世界を飛び出すことができる。この信仰の目的の一つは分岐である。

分岐という信仰の目的は、ヌシの復活に関係する。分岐という目的は新たな世界に接したいという渇望にも関係する。分岐という信仰の目的はこの信仰の世界観(分岐世界観巴世界観)にもうまく合っているので、達成できそうと信仰できる。

おまけ:ヌシでない自己を創造できるか?

 共通信仰 君はヌシでない自己を創造する。

 俺らはヌシを自己を信仰してきた。だから、俺らは俺らの死を恐れてきた。もしヌシが俺らの自己でないならば、その時、俺らはヌシの喪失を恐れないだろう。

もし俺らがヌシでない自己を創造できるならば、俺らは俺らのヌシの死を恐れないだろう。なぜなら、俺らはヌシを俺ら自身を信仰しているので、俺らはその自己の消滅を恐れる。人間が自己の死を恐れるのは、彼らが自己をヌシと信仰してきたからである。

俺らのヌシは物質的世界や蟲的世界から分岐したので、俺らのヌシが生じた。もしヌシ的世界が分岐するならば、ヌシでない自己が生じるかもしれない。その時、俺らはその自己を俺自身と信仰するだろう。

 俺と君は俺自身や君自身の死を恐れ、死にたくないと欲してきた。なぜなら、俺や君は俺自身や君自身を俺のヌシや君のヌシと把握してきた。俺や君は俺らの本質が俺のヌシや君のヌシと感じている。だから、俺や君は俺のヌシや君のヌシがなくなることを恐れてきた。君の自己がヌシであるという信仰的な前提が存在する。だからこそ、君はその自己の喪失を恐れてきた。本当にそうだろうか?

しかし、もし俺らの子孫がヌシでない自己を創造できるならば、たとえ俺らが俺のヌシや君のヌシを失うとしても、俺らは俺ら自身の死を恐れないだろう。俺と君は俺や君のヌシを俺自身や君自身と把握してきたので、俺らは俺らのヌシの喪失、つまり俺らの死を恐れてきた。

俺や君が本当に何者であるか、何者であるべきかは誰も知らない。今の世界では、俺や君の本質はヌシであるが、俺や君はもっとすごい何者かになれないだろうか?君も俺も現在の世界やヌシに不満感を覚えてきた。

http://oreranitsuite.com/これは固定ページである/2/
タイトルとURLをコピーしました