システム

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 この宗教では、俺らは俺らの宗教を一種のシステムと認識する。以下では、俺らはシステムの日本語訳及び感覚や意味を提示するつもりである。

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システム

システム

  共通認識:システムとは、集合(境界)と要素と決まりの組みである。

 システムとは、集合(境界)と要素と決まりの組みである。集合は球面や空間、会社や業界などの境界や集合それ自体である。要素は球体の中の点や空間の中の物質、社員や業界人である。決まりは自然法則や社則や運動競技のルールである。

集合(境界)と要素と決まりの3つが成立するとき、一つのシステムが成立して正常に機能する。例えば、家も一種のシステムであり、家(建物)と家族(要素)と掟(決まり)の組みとして解釈される。この考えを採用する時、俺らはシステムの日本語訳を「家(競技家)」と翻訳することができるだろう。

日本人を含む東洋人はシステムを「家」と認識するとき、俺らはシステムを感覚的に把握できるかもしれない。または、俺らはシステムを「陣」と置くことができるかもしれない。陣の内部と外部という境界が存在して、陣には要素(人間)が存在して、そして陣の内部はある種の決まりによって支配される。

具体例

自然界

 自然界:自然界は宇宙と物質と自然法則(物理法則)の組みである。

 自然界は宇宙と物質と自然法則(物理法則)の組みである。俺らが宇宙を集合(境界)と解釈して、物質を要素と解釈して、そして自然法則を決まりと解釈する。この時、俺らは自然界をシステムと解釈することができる。

つまり、自然界はシステムであり、集合と要素と決まりの組みである。自然界は宇宙(空間)によって区切られる物理的な境界を持っているだろう。物質は自然法則に沿って運動している。俺らはシステムとしての自然界を自然界=(宇宙、物質、自然法則)と表示する。

国家

 国家:国家は領土と国民と法律の組みである。

 国家は領土と国民と法律の組みである。俺らが領土を集合(境界)と解釈して、国民を要素と解釈して、そして法律を決まりと解釈する。この時、俺らは国家をシステムと解釈することができる。

つまり、国家はシステムであり、集合と要素と決まりの組みである。国家は所有される土地によって区切られる物理的な境界を持っているだろう。国民は法律に沿って競技している。俺らはシステムとしての国家を国家=(領土、国民、法律)と表示する。

運動競技

 運動競技:運動競技における試合は競技場と選手と決まり(ルール)の組みである。

 運動競技における試合は競技場と選手と決まり(ルール)の組みである。俺らが競技場を集合(境界)と解釈して、選手を要素と解釈して、そしてルールを決まりと解釈する。この時、俺らは運動競技をシステムと解釈することができる。

つまり、運動競技における試合はシステムであり、集合と要素と決まりの組みである。競技場は土地と建物によって区切られる物理的な境界を持っている。選手はルールに沿って競技している。俺らはシステムとしての運動競技における試合を試合=(競技場、選手、ルール)と表示する。

上記を補足すると、選手それ自体も運動競技におけるルールによって定められている。例えば、選手の服装や存在や状態は運動競技におけるルールから導かれる。

システム的な思考

システム的な思考

 システム的な思考:システム的な思考とは、システムを形成して、対象をシステムに組み込む思考である。

 日本国における大和民族の経営者は無能であると指摘されきた。彼らは自己の会社の内部で生じていることすら把握していないと批判されてきた。それに対して、白人の経営者は非常に優秀であり、彼らは会社内部で生じていることを隅々まで把握して、対策をとっていると指摘されてきた。

なぜこの種の違い生じるのだろうか?個人的な印象では、この違いはシステム的な思考の結果である。欧州人の経営者は自己の会社システムを形成して、社員をそのシステムの中に組み込む。この時、社員は欧州人の経営者が定めた法律に沿って競技する。

だから、欧州人の経営者は社員の運動をある程度まで把握することができる。当然、自由意志による運動競技の結果は把握されないので、報告という競技が必要になる。

システムと知ること

 システムと知ること:ある対象をシステム的に知るとは、その対象をシステムの中に組み込んで、その対象の存在や状態や運動を把握することである。

 ある対象をシステム的に知るとは、その対象をシステムの中に組み込んで、その対象の存在や状態や運動を把握することである。上記の例では、ある社員を知るとは、その社員を会社システムの中に組み込んで、その対象の存在や状態や運動を把握することである。そのシステムに組み込まれた後、その社員の存在や状態や運動はシステムの中の決まりに従う必要がある。

例えば、俺らが自然界を知ろうとする時、俺らは自然界に関するシステム(理論)を形成して、物質をそのシステムの中に組み込む必要がある。その時、俺らは物質がどのように運動するのかを知ることができる。しかし、俺らは理論の範囲外の物質の運動を知ることはできない。なぜなら、その場合、物質はその理論に組み込まれていない。

一般的に、創造主は全知全能と考えられてきた。なぜなら、創造主は自然界というシステムを創造したので、その中の要素である物質の全てを知っている。しかし、もし物質がシステム通りに運動しないならば、その時、創造主は全知全能にならないだろう。

システムと自由意志

 システムと自由意志:もしある対象が自由意志をあるシステムの中で持っているならば、そのシステムの創造主はシステムの中の要素の運動の一部やシステムの状態を知ることができない

 もしある対象が自由意志をあるシステムの中で持っているならば、そのシステムの創造主はシステムの中の要素の運動の一部やシステムの状態を知ることができない。例えば、俺らがシステムを運動競技と置く時、俺らは運動競技における試合の状態を知ることができなくなる。実際、現実的にも、俺らはサッカーの試合における勝敗を理論物理のようには予言することができないだろう。

ただし、俺らはどちらかの勝敗がつくことや試合がいつか終わるだろうことは知ることができる。俺らが自由意志を仮定するとき、俺らはシステムの中の局所的な状態を正確には知ることができなくなる。けれども、俺らは始めと終わりや大局的な状態は常に確定していると知ることができる。

ただし、選手同士が試合を泥沼戦争のように辞めない場合や選手が試合会場にこない場、俺らはシステムの中の大局的な状態すら知ることができなくなるだろう。当然、選手がそのシステムを内部から破壊するような場合も、俺らは何も知ることができなくなるだろう。

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