分岐正当観

俺らの信仰
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 バラバラの狩猟民族が人間社会を形成する時、何が善であり何が悪であるかが問題になる。例えば、男女公平が善か、男女平等が善かである。物質的世界には、善悪の判断は存在しないので、これは信仰の問題に帰着される。

善悪の判断に対する魚拓(image)は球蹴りの試合におけるレッド・カードが適切である。人間が善悪の判断を持つとは、人間が彼ら自身のレッド・カードを持つことである。この信仰では、物事の善悪は分岐によって正当化される(分岐大原則と巴思想)。

この信仰では、俺らは審判と判断を明確に区別する。

1:赤無(あかなし)〜背景〜

 共通認識 赤無とは、善悪の判断は物質的世界及び蟲的世界の中に存在しない状態である。なお、赤の意味はサッカーのレッド・カードである。

 科学や数学は善悪の判断を教えない。だから、数理情報の製造者は彼らが観察した対象に関する情報を製造すれば良いだけである。しかし、その情報製造は不十分である。

なぜなら、物質的世界には、善悪の判断が存在しない。俺らはその状態を赤無と呼ぶ。もし善悪の判断が存在しないならば、俺らは秩序と安定をもつ人間社会を形成できない。

だから、俺らは善悪の判断を創造する必要がある。では、俺らはそれらをどのように存在するのだろか?その答えの一つが分岐である。

1:赤無の後と正当性

 物質的世界は赤無であるので、人間は人間社会を形成するために、善悪の判断を創造しようとする。そのとき、善悪の正当性に関する問題が生じる。物質的世界には、男女平等が正当であるか男女公平が正当であるかに関する善悪の判断は存在しない。

2:赤無と正当性をめぐる争い

 人間社会を形成するために、誰かが善悪の判断を創造するとき、その善悪の正当性に関する争いが生じる。なぜなら、ある人間は男女平等を正当であると主張して、別の人間は男女公平を正当であると主張する。たとえ俺らが科学者を導入するとしても、どちらが真理であるかは物質的世界には存在しない。

だから、俺らはどちらが正しいかを俺ら自身で選択する必要がある。このとき、善悪の正当性をめぐる争いが生じる。この争いの原因は善悪それ自体と善悪の正当性が物質的世界には存在しないことである。

では、何が善悪と善悪の正当性を与えるのだろうか?コーカサス人種はそれらをこの世界の創造主に求めた。創造主がこの世界を創造したので、創造した対象が言うことが正当である。この信仰では、俺らは善悪と善悪の正当性を ‘ 分岐 ‘ に求める。

2:分岐正当性と分岐正当観

 共通認識 分岐正当性とは、ヌシがより分岐された物事を正当であると判断する人為である。分岐正当観とは、分岐正当性が正当である正当観である。

1:分岐正当性

 この信仰では、俺らは分岐を物事の正当性と認識、または進行する。なぜなら、世界観と信仰の目的人間の本質であるヌシが分岐に関係する。簡単にいうと、俺らが正当性を分岐の中に見るとき、俺らの信仰がうまく機能する。

分岐という正当性は分岐世界観及び巴世界観と分岐という信仰の目的、そして分岐存在であるヌシから導かれる。三柱は信仰という人工的な世界の基本的な骨格を創造した。三柱は世界(集合)と存在(要素)と原動力(目的)を創造する。

俺らは人工的な世界の基本的な骨格が分岐正当性を内在的に肯定していると認識、または進行する。

2:くちゃらーとおまんこくちゃらーの具体例

 例えば、クチャラーやおまんこクチャラーが正当であるか判断しよう。たとえ俺らが天才科学者であるとしても、それらの行為が正当であるかはわからない。なぜなら、行為の正当性は物質的世界には存在しない。

分岐正当観では、これらの行為は正当でない。なぜなら、これらの行為は非分岐行為である。証拠例として、動物のほとんどはクチャラーかつおまんこクチャラーである。

さらに、分岐性観でも、これらの行為は正当でない。なぜなら、俺らは性行為を動物から分岐するように行わなければいけない。このようにして、俺らは物質的世界及び蟲的世界に存在しない善悪に関する判断を下す。

3:審判と判断

 共通認識 審判するとは、蟲がある物事に蟲的世界における物事(主に状態)を対応させる行為である。判断するとは、ヌシが蟲的世界における物事に正当性を対応させる人為である。

1:審判行為

 例えば、哺乳類もまた人間と同様にある状態を審判する。鹿などの草食動物はある状態やある存在を危険と審判して、その場から逃走しようとする。しかし、機械はある状態を危険と審判せずに、機械的な命令にしたがって動き続ける。

なぜなら、動物は物質的世界から分岐している。この分岐が審判という行為をもたらす。ここでは、俺らはこの審判行為を蟲的世界における行為に対応させる。

機械は物質的世界から分岐していないので、何も審判できない。

2:判断人為

 一方、何かを判断するのは人間に特有な人為である。例えば、俺は鹿による危険の審判行為を審判の例として提示した。しかし、鹿は危険が正当でないかを判断できない。

なぜなら、鹿は物質的世界や蟲的世界から分岐していない。または、鹿の肉体の中には、ヌシが存在しない。だから、鹿はヌシ的世界に対応する人為を行えない。

一方、人間は物質的世界や蟲的世界から分岐している。だから、より分岐された行為や人為を行うことができる。その証拠として、判断という人為が存在する。その人為は人間のヌシが物質的世界や蟲的世界から分岐していることを間接的に示している。この信仰では、俺らは審判と判断をこのように考える。

おまけ:判断と肉体の操縦への結合

 取り決め(分岐判断操縦) 君がxを非分岐物事と判断した後、君は君のその判断を君の肉体に結合させて、君は君の肉体をxから分岐するように君の肉体を操縦する。

http://oreranitsuite.com/2019/12/20/分岐大原則〜分岐物事及び非分岐物事と一般化さ/

 共通認識 判のみとは、判断を下すが、その判断を彼の肉体の行為に結び付けない人間である。かちるとは、判断を肉体の操縦へと結合させる行為である。君が何かを何かに結合させる時、カチっと音がなる。これがかちる行為の由来である

 取り決め(かちる則) もしxが判断を下したヌシであるならば、xはかちる義務を持つヌシである。

 たとえ俺らが物事を正当に判断するとしても、もし俺らがその判断を俺らの肉体の操縦に結合させれないならば、その判断は無意味である。だから、俺らは判断を肉体の操縦に結びつけることの重要性を認識する。俺らが俺らの肉体を車体と仮定するとき、たとえ俺らが危険を悪いと判断するとしても、その判断を車体の運動に結合させれないならば、その判断は無意味である。

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