バイバイ、ヴァンプは同性愛蔑視差別か〜表現の自由とキリスト教〜

大和民族について
https://ja.wikipedia.org/wiki/アラン・チューリング

 映画「バイバイ、ヴァンプ」が同性愛蔑視や差別と批判されてきた。一部の人間は公開中止を求めてきた。この行為に対して、日本人は表現の自由の観点から対抗してきた。

しかし、俺は両者の行為のどちらにも反対である。なぜなら、彼らの視点や歴史観はなぜか白人視点、正確にはキリスト教の白人視点である。一方、俺らの民族は大和民族であり、俺らの小人種は中国人と同じ東洋小人種であり、俺らの人種はアメリカ先住民とおなじモンゴロイド人種である。

白人と東洋人は異なる歴史と異なる宗教を持ってきた。俺らと彼らは歩んできた歴史がそもそも異なる。以下で、俺らはそれを見よう。

1:問題点

1:視点が白人視点

 俺が公開中止を求める人間の発言を見ると、彼らの視点は白人視点である。もっと言うと、キリスト教徒の白人やユダヤ教徒の白人視点である。しかし、俺らは白人でもキリスト教徒でもないので、白人の視点で大和民族を含む東洋小人種の歴史を語ることは正当でない。

俺が公開中止に反対する時、この種の日本人は西洋における同性愛者に対する損害行為を引用する。しかし、俺らは白人でないので、その損害の主体でない。さらに、俺らはキリスト教徒でなかったので、同性愛を罪と感じないし、罪の概念それ自体を持たない。東洋文明は罪と罰の文明でなく、礼と天誅の文明である。

俺は白人でもキリスト教徒でもないので、白人視点の歴史を持ち出されても意味不明である。同性愛者を罪として、殺してきたのは白人であり、俺らでない。

2:差別とは何か?

 この種の人間は差別という単語を持ち出す。しかし、この種の単語は罪や魔女や悪魔と同じであり、罪悪感を植え付けて、他人を性奴隷にする概念である。重要なことはこの映画が損害を他人に与えてきたのかである。

俺が知りたいのはこの映画が損害を誰かに与えたのかである。この種の活動が胡散臭いのは、他人の善意を悪用して、人心を掌握したいである。

2:日本を含む東洋史及び西洋史と同性愛

1:東洋における同性愛

 日本列島および大和民族を含む東洋世界は同性愛を罪と認識してこなかった。だから、武将にも同性愛が多く存在したし、中国でも有名人が普通に同性愛者であった。

2:西洋における同性愛

 一方、西洋では、キリスト教の影響により同性愛が罪とされて、治療の対象になった。有名な話では、イギリス人のアラン・チューリングが同性愛者であって、彼は同性愛に関して、英国政府ともめて、その後自殺したらしい。

3:解決案

 歴史的正当定理 もしxが東洋人であるならば、xは正当性を東洋史の中に置く人間である。

 視点的正当定理 もしxが白人視点を持った行為であるならば、xは東洋世界で正当でない行為である。

1:正当性を東洋の歴史に置く

 俺らが行為の正当性を東洋の歴史の中に置く時、この種の白人崇拝的な行為が除去される。東洋の歴史では、同性愛は禁止されていないし、罪でない。だから、同性愛を茶化すような映画を差別として中止に追い込むべきでない。

上記の行為が賛同されないのは、視点が白人視点であること、そしてなぜかキリスト教的な価値観が正当な価値観になってることである。非キリスト教徒の東洋人をキリスト教的な文脈で批判しても、誰も対応しきれないだろう。

21世紀の西洋で、同性愛者に対する批判や侮辱が重く受け止められるのは、彼らが同性愛者を罪として、虐殺してきたからである。また、キリスト教では、同性愛は罪であり、現在でも神との戒律のような契約においてその価値観は有効である。

おまけ:なぜ大和民族の視点は白人視点か?

1:白人になりたい

 大和民族は白人コンプであるので、彼らは白人になりたい。そのためのファッションが同性愛者の権利である。彼らの政治活動はmattの白人風メイクや白人風整形と同じである。だから、彼らの行為はくだらなく喜劇的である。

2:ブサイクからの現実逃避

 大和民族が白人視点で政治を語るのはブサイクな現実から逃避したいからである。彼らは彼らの不安を何よりも恐れる。だから、不安のためならば、彼らは大和民族や東洋小人種の歴史や資産や領土までも捨て去る。 

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