俺は奴隷状態と自由状態と実現状態を提示する。分岐世界観によって、俺らの世界は分岐してきた。物質は無から分岐して、蟲は物質から分岐して、ヌシは蟲から分岐した。その世界観に対応するように、奴隷状態は無状態から分岐して、自由状態は奴隷から分岐して、実現状態は自由状態から分岐した。
俺らが俺らの肉体を車体と例えるとき、各状態は車体の状態や車体の運動の仕方に対応する。車体の運動には、3種類存在する。一番目は自動運転であり、二番目は自由で動物的な運転であり、三番目は義務的、または実現的な運転である。各運転はそれぞれ機械と動物と人間に対応する。
以下の状態の正当性は分岐正当性によって与えられる。分岐の度合いは実現>自由>奴隷である。
1:奴隷状態
上記の車の例えでは、奴隷状態は電子計算機の制御による自動運転である。
1:具体例
例えば、奴隷状態には、機械の運動や物体の運動が存在する。これらは物質的世界によってその運動を強制されている。俺らが命令を電子計算機に与えた後、その計算機は命令に沿って機械的に動く。これも奴隷状態である。
2:強制と半強制
俺らは強制と半強制を区別する。強制される状態とは、主対象が強制的な状態や行為に逆らう能力を持っていない状態である。半強制される状態とは、主対象が強制的な状態や行為に逆らう能力を持つが、主対象が逆らう行為を選択しない自由状態である。例えば、奴隷は奴隷主によって強制された状態や行為に逆らう能力を持っている。
しかし、彼らは不安や恐怖や諦めによってその状態に抵抗しない。一方、俺らは地球の自転及び公転や太陽の運動や太陽からの光の運動に逆らうことができない。これがこの信仰における強制である。
2:自由状態
上記の車の例えでは、自由状態は動物による車の運転である。この時、車は深刻な交通事故を引き起こすだろう。
1:具体例
動物は自由である。彼らは彼らの思うように自由に行為してきた。哺乳類がもっとも自由であり、昆虫や微生物になると、自由でなく、機械のように運動する。
2:自由意志と選択
動物は彼らの自由意志を持ち、彼らの行為を選択してきた。ただし、動物は自己認識能力を持っていないので、彼らは彼ら自身が彼ら自身の行為を自由に選択してきたことを認識できてこなかった。自由意志は人間に特有な状態でない。
3:実現状態
実現状態は義務よりも夢や夢の実現に近い。人間のみが夢を持ち、夢を実現させようとする。この人為は動物と人間を区別する。義務状態とは、主対象が行為する時に、主対象が物事を半強制される状態である。
この義務状態は動物と人間の中間に位置する状態である。例えば、ライオンは生きるために狩をしなければいけない。この状態は義務状態である。
たとえ俺らが何かを食べたくなくとも、俺らが生きる行為をするとき、俺らは何かを食べなければいけない。上記の車の例えでは、義務状態が人間による車の運転である。なぜなら、大部分の人間にとって、運転それ自体は実現の目的それ自体でない。
1:具体例
例えば、この信仰では、俺らは俺のヌシの復活を実現させる。俺らの状態は実現状態である。一方、俺らが復活を実現するとき、俺らはある種の物事を義務として半強制される。この状態は義務状態である。
2:義務状態
この信仰では、俺らは借金を返す義務を実現状態と認識しない。俺らは借金に関する契約を結びお金を借りる状態を実現状態と認識する。なぜなら、誰も借金を返し続ける状態を実現させたくない。
祈り続ける状態も実現状態でなく、義務状態である。なぜなら、たとえ俺らが何かを祈り続けるとしても、俺らは何も実現しない。もし祈る行為それ自体が実現の目的であるならば、祈り続けることは実現状態である。
普通に生きたい人間にとって、労働も義務状態である。もしある人間が家族を持って幸福に生活したいならば、労働行為は単なる義務状態である。ただし、もしある人間が医者になって患者を救いたいならば、その行為の継続は義務状態でなく、実現状態である。人間が何を実現したいかを決定するので、何が義務状態であり、何が実現状態であるかは人間の決定に依存する。
4:正当化
俺らの観察と審判によって、奴隷状態は機械の状態に対応して、自由状態は動物状態に対応する。この2つの状態は非分岐状態である。一方、実現状態は人間特有の状態であり、分岐状態である。