ヌシの下車

俺らの信仰
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 俺らが俺らの肉体を車体と仮定する時、俺らのヌシは運転手に対応する。現実世界では、俺ら運転手は車体から降りることができる。しかし、俺らのヌシは俺らの肉体から降りれない。

俺は俺の肉体から降りてみたい。封神演義では、魂魄は女媧の身体から抜けて自由に動いていた。同様に、俺らは俺らのヌシを俺らの肉体から抜け出させることができないのだろうか?

1:ヌシの下車

 共通信仰 ヌシの下車とは、ヌシが彼の肉体から出て?、ヌシまたはヌシ及び蟲が単独で存在する状態である。

 上記では、俺は出てという動詞を使用した。この動詞が適切であるか不明である。印象的には、ヌシが俺らの肉体に依存せず、束縛せずに、動き回れるか。

運転手は車から降りて自由に動き回れる。しかし、俺らのヌシは俺らの肉体から降りて自由に動き回れない。なぜこの種の違いが生じるか誰にもわからない。

2:ヌシの下車の実現

 正当な肉体の操縦 俺らはヌシの下車を実現させる。

 この信仰の目的は、俺のヌシの復活である。俺は物質的世界に延々と束縛されたくない。

1:問題点は記憶

 俺らが何かを思い出す時、俺らは俺らの脳の記憶を思い出す。その記憶は電子計算機における記憶回路とほぼ同じである。もし俺らのヌシが下車できるならば、俺らは俺らの記憶を何からどのように引き出すべきであるか?

現時点で、俺はこの解を持っていない。だから、信仰者はこの問題を解決せよ。

3:正当化

 この信仰の目的は分岐とヌシの復活である。俺らがヌシの下車を分岐人為と審判する時、分岐大原則に沿って、俺らの肉体を操縦する。

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