望月新一のABC予想証明の組織的な問題点と報道(peter woitとnature)

大和民族について
https://ja.wikipedia.org/wiki/エヴァリスト・ガロア

 俺は数学について無知である。しかし、俺はABC予想について非常に懐疑的であった。なぜなら、日本人の数学者や科学者の文化的に文明的に劣等な部分がこの問題であらわれたように思える。以下で、俺は組織的な問題となぜこの証明は認められないだろうかについて述べる。

ABC予想の問題は望月の使用する数学の困難さや白人との意思疎通の欠如、そして論文の形式や長大さの問題でなく、人間組織の問題である。例えると、組織や人間社会の問題は ‘ 運動競技の試合 ‘ の問題である。

日本人の科学者も数学者も彼ら自身の運動競技をまともに形成できない。運動競技はsystemや人間社会や文明にも関係して例えられるように思える。彼らは選手として優秀であるが、審判者やsystemの創造者として優秀でない。

1:問題

 望月新一も彼の友人も白人的な学術制度を非常に嫌っているように見える。この種の日本人の科学者や数学者の数は一人でないので、それ自体は不思議でない。俺は白人崇拝に対する強烈な抵抗という彼らの心情に賛成するが、それでもなお、望月の行為には非常に深刻な問題が存在する。

その問題とは日本人の数学者や科学者が彼ら自身の学術system(査読systemを含む)を作れないことである。日本人の数学者も科学者もどんな試合で学術を競技してきたかを理解できない。彼ら運動競技場の上で白人の真似をしてただただデタラメに動いてきた。

競技がない状態であるので、誰も彼らの論文を評価しようがない。さらに、たとえなんらかの競技が存在するとしても、その競技の信用や信頼、正当性も不明であるので、誰も彼らの論文を信用しない。

1:試合というsystemそれ自体の欠如

Publication of RIMS does not really qualify as a major journal. So everything is going to be alright…

https://www.math.columbia.edu/~woit/wordpress/

 systemとは、俺の解釈では、集合と要素と決まり事の組である。日本人の数学者は群の概念を知っているが、それを彼ら自身の組織設計に応用できない。もし望月や友人の加藤が西洋的なsystem(彼らは球蹴りを競技して、東洋人は卓球を競技する)を嫌うならば、彼らは彼ら自身のsystemを形成して、そのsystemの仕組みを世界に文字や音声できちんと表現する必要がある。

卓球も球蹴りも異なる文明に所属するが、これらの運動競技は彼らの行為に関する決まり事をきちんと文字で表現している。同様に、もし望月や加藤が異なる査読systemや異なる学術systemで生きていきたいならば、彼らはそれらを文字や音声で世界へと表現する必要がある。大和民族の俺ですら、彼らがどのような競技でどのように動いているかすらわからない。いわんや西洋人は、、、。

望月も彼の一派も運動競技を行ってきていない状態である。だから、誰も彼らを評価できない。もし球蹴り競技が存在しないならば、球蹴り選手のハンド行為をレッドカードと評価しようがない。競技が存在するからこそ、その行為がレッドカードとして評価される。

 俺の印象では、望月や彼の一派は運動競技を創造できなかったので、行為に対するレッドカードが存在しない状態、つまりなんでもありの状態である。誰も何でもありの運動競技を見ようとしない。その状態は俺が子供の時に書いた少年漫画と同じ状態である。

俺は上記の英文を読めないが、書き込みの意味はPRIMSはまともな査読雑誌でないので、なんでもありな状態になっているである。俺も彼の意見に賛成である。重要なことは東洋人が白人のsystemに服従することでなく、彼ら自身のsystemをきちんと設計することである。

西洋人も日本人も望月のsystemや運動競技が何であるかすらわからない。だから、間違ってすらいない状態(Not even wrong)が存在している。もし球蹴りという運動競技が存在しないならば、ハンドも飛び蹴りもテコンドーサッカーもnot even wrongと許される。

2:信用と信頼の欠如

 望月のABCの問題は信用と信頼の欠如でもある。彼らは査読行為の信用や信頼をどのように与えているかすらわからない。彼らは人間社会における信頼や信用をそもそも理解できないように見える。

特に、日本人の数学者や理論物理学者は信用や信頼を真理と誤認している。だから、彼らは真理を唱えることに熱中してきて、信頼や信用を形成する、または信用や信頼をsystemに組み込むことに失敗してきた。

俺は数学雑誌に詳しくないが、彼らの論文と査読に対する違和感は八百長的な違和感である。自己の雑誌?に査読者を招いて、査読をさせる。さらに、同じ大和民族同士で査読しあっている。彼らが他者に対する信用や信頼を認識できないからこそ、この状態が形成されたように思える。

 球蹴り選手が彼ら自身の行為に対する審判を彼ら自身でやっているような違和感。西洋人は信用や信頼を理解しているので、審判者と競技者を客観的な存在として別に置いてきた。望月の行為は彼らの行為に対する審判を自己のteamでやってしまった。

3:systemの正当性の欠如

 もし望月が彼ら自身のsystemを創造したいならば、彼らはその正当性を提示する必要がある。白人の学術systemや大学systemの正当性は彼らの歴史と業績によって与えられてきた。彼らはそのsystemで結果を出してきたので、白人のsystemは正当性を持つ。

東洋人は正当性を持っていない。だから、彼らは学術分野で彼ら自身のsystemを作るのが困難である。もし望月が彼自身のsystemを持ちたいならば、systemの正当性を考える必要がある。案として、systemの機能や歴史や東洋文明、または宗教が正当性を与えるように思える。

白人は地中化人をしばしば引用してきた。なぜなら、彼らもまた彼ら自身の組織の正当性を創造できなかったので、正当性を中東や地中海に求めた。しかし、俺らはコーカサス人種でないので、彼らの真似をできない。

2:俺が奇妙であると思った点

1:客観性の欠如と民族的な馴れ合い

 俺は彼の論文の真偽を疑っている。なぜなら、彼の論文に対する査読には、客観性が存在しない。さらに、民族的な馴れ合いもまた存在する。

俺にとって、この状態は正当でなく、レッドカードである。論文の正当性は人種や民族に非依存的である。この様子はまるで大和民族の球蹴り選手が彼らの行為や行為の正当性を彼ら自身で審判しているような違和感である。この状態は客観的でないので、審判者が必要とされてきた。

国際社会では、審判は自国や自民族が暗黙の了解として回避されてきた。望月一派はなぜ試合で審判者と競技者が存在するかの意味を把握できないように見える。

2:テレンス・タオやそのほかの大御所の沈黙

 テレンス・タオやその他の大家もこの論文に関して沈黙している。俺はこの状態は流石におかしいと審判した。望月の知的能力とテレンス・タオの知的能力はそれほど変わらないように思える。同程度だろう。

にも関わらず、加藤文元や山下や星という日本人が望月の理論を理解している。この状態は非常に奇妙である。さらに悪いことに、彼らは皆大和民族である。

ペレルマンによるポアンカレ予想の解決も迷走した。しかし、人種や民族に関係なく、その業績を皆認めただろう。望月とペレルマンの違いはまさにここである。大和民族にしか理解できない数学は数学でない。

3:知らないくせに批判している

 日本人の学者は知らないくせに批判していると主張してきた。しかし、この主張は正当でない。俺は球蹴りや車に無知であるが、球蹴り選手が八百長してないかや車の乗り心地を ‘ 審判 ‘ できる。

しかし、俺は球蹴り競技者が見ている世界や彼らの肉体の操縦について無知である。俺は車の仕組みも知らない。これは数学や科学にも応用できる。

俺は自然界の仕組みや数学の仕組みを知らない。けれども、自然界や数学者の世界がなんかおかしい、うまく機能していないことくらいは審判できる。俺は日本の数学会は正常に機能していないと審判する。

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