ABC予想の望月新一のブログとIPMUの天才大栗博司の知的欠損

大和民族
https://ja.wikipedia.org/wiki/大栗博司
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 このような歴史的な観点から考えても、「ノー」と言うべきときには、明確かつ毅然とした姿勢で「ノー」を発信することは至って重要なことです。

 最後に、もう一つ、このような文脈で2018年に強く感じたことを記録しますと、大学の将来計画等の様々な書類において「世界をリードする」という文言をよく目にしますが、(私の印象では)多くの場合には、この表現は非常に不適切な、「履き違えた」ような意味で用いられています。つまり、以前の記事(=2017-11-21付け)でも言及した通り、このような表現を用いる多くの大学関係者は、「世界をリードする」=即ち、欧米の主流や流行りを日本でもいち早く導入し(言い換えれば、いち早く「ダウンロードしてインストール」し)、その欧米の主流や流行りに対して精一杯、究極的な「イエス」を発信することこそが「世界をリードする」ことであるというような考えの下で表現を用いているような印象を強く受けています。

https://plaza.rakuten.co.jp/shinichi0329/diary/

 俺はABC予想が解決されたと審判しないし、査読に関する彼の行為にも賛成しない。しかし、俺が望月のブログを読んだ後、俺は彼の発言(彼の感情や魂の叫び)には一理あると審判した。そして、俺は彼の意見に賛成する。

彼の意見とは、有色人種は白人に媚を売るなである。しかし、たとえ彼がこの発言を提示するとしても、日本人の学者は何も変化しない。例えば、IPMUの大栗博司も村山斉も白人ごっこを永遠に止めないだろう。望月の上記の発言の対象は大栗や村山であるが、彼らはそれを理解できてるのか?

では、なぜ大栗も村山も白人ごっこをやめられないのか?俺は以下でその理由を憶測する。この種の憶測は日本人の学者気取りに一般化される。俺は大栗は公人であると審判した。彼はおだてられてきて、完全に勘違いしているので、日本人の本音を以下で提示する。

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1:大栗博司の知的欠損

 ノーベル賞なんて最近じゃオタクが選ぶ今期アニメぐらいの価値しかねえからな。社会的にはドラえもんとかアンパンマンの方が重要なんだけど、オタクはアキラ選ぶわけよ。科学もオタクを始末して、民間人が選ぶ新科学賞とか作ってジョブズとかカラオケ作った人に科学賞あげた方が百倍有益だわ

https://twitter.com/satetu4401/status/1249626530554101761

 大栗博司は天才と同僚によって見なされてきた。しかし、一般の日本人は彼は単なるオタクであると考えてきた。では、なぜ彼らはそう考えてきたのか?

以下の話は日本人の学者へと一般化される。大栗の知的能力はほとんどの日本人の学者よりも高い。

1:善悪の判断の欠如

 俺は大栗は善悪の判断を下せないと審判する。善悪の判断の欠如は彼の間抜けさを導いている。例えると、彼はレッドカードを持たないサッカーの審判に似ている。

たとえ選手が相手選手の危険行為を審判に訴えるとしても、その審判はレッドカードを持っていないので、ぼーっとしている。彼は反応できないし、危険行為に対して彼のレッドカードを出さない。その結果、危険行為が放置される。

大栗の間抜けっぽさや無能っぽさはこれに近い。たとえ望月が上記のような日本人の白人コンプと白人への変身願望を婉曲的に指摘するとしても、大栗はそれがレッドカードであるかを判断できないので、ぼーっとしている。その時、危険行為がいつまでも放置されるので、日本人は大栗は本当に天才であるかと疑う。

2:よくある勘違い

 俺を含めた日本人は大栗の数理能力を疑っていない。疑われているのは大栗のそのほかの脳の運動である。例えば、大栗の善悪の判断を下す能力は疑われている。

3:分析的思考の欠如〜気体や液体のような思考〜

 大栗は分析的思考を実行できない。分析的思考とは、人間が対象それ自体を分析する思考である。一般的に、東洋人の思考は関係性思考であり、対象同士の関係を気体や液体のようにぼんやりと捉えてしまう。その結果、彼らの思考には、個体のようなはっきりとした境界が見られない。

その具体例として、大栗の知的能力の高さは数理能力の高さであり、それは善悪の判断能力や意味把握能力や審判能力でない。しかし、大栗は彼自身の数理能力それ自体を分析できないので、数理能力の高さ=天才や知性の権化と錯覚する。

例えると、ウサインボルトは200m走の天才であるが、サッカーの天才でなかった。なぜなら、200mにおける運動能力はサッカーにおける運動能力それ自体でない。なぜなら、対象が互いに異なる。知的能力も運動能力と同様で、数理能力は200mにおける運動能力に似ている。

 一般的に、日本人は対象それ自体を分析できない。だから、日本人は天才サッカー選手がいきなり水泳をやるような奇妙な行為を無自覚的に繰り返す。

4:意味把握の欠如

 大栗は物事の意味を把握できない。この状態は彼の脳の未発達を暗示している。彼はまるでキッズアイドルのようであり、彼らは性行為の意味を把握できない。

例えば、アメリカ大陸の多様性は俺らモンゴロイド人種の虐殺の結果である。だから、大栗はそれを賛美すべできない。しかし、俺は彼はその意味を把握できないと審判する。

2:理由と原因

 以下で、俺は理由と原因を提示する。数学者や科学者には、アスペルガーや発達障害のような人間が多い。しかし、ここでは俺はその性質を除外する。

1:文明がない→善悪を下せない→わかってないように見える

 大栗は彼自身の文明を持っていないので、彼は善悪を下せない。文明とは運動競技のようなものである。文明がない、つまり運動競技が存在しないとき、その中の選手は彼自身のレッドカードを持たない。

俺は大栗はどのような運動競技を行ってきたかをいまいち把握できない。西洋文明をサッカーと仮定すると、東洋は卓球である。大栗はどの競技でどんなレッドカードを持ってきたのか?

俺は大栗は彼自身のレッドカードを持っていないと審判した。だから、彼は行為に対するレッドカードを出せない。ハンドも卓球球を蹴ることも暗に許されている。彼が恐れるのは白人の機嫌のみである。

2:脳の未発達→意味把握の欠如

 大栗は高い数理能力を持つ。しかし、彼の脳は未発達であり、子供やキッズアイドルに近い。だから、彼は物事の意味を把握できない。

その結果、彼は奇妙な行為を繰り返す。その代表例があの多様性の賛美である。数理能力と脳の発達は厳密には関係ないだろう。

例えば、数学には、しばしば天才少年が登場してきた。テレンス・タオがその一例である。しかし、たとえ彼が天才小学生であったとしても、小学生の彼は性行為の意味を把握できなかっただろう。

 だからこそ、大人の保護が重要であった。たとえ俺が天才であったとしても。大栗も彼に似ている。

紫綬褒章IPMUの天才理論物理学者大栗博司は本田圭佑か〜日本人学者の知的欠陥〜
 この記事の前提 俺は大栗博司の数理能力を疑っていない。正確には、俺は彼の専門における能力を疑っていない。 大栗博司は天才であると認識されてきた。しかし、俺は彼は天才でないと審判する。以下で、俺は大栗博司の知的欠陥について述べる。なお、彼の名前には、意味がない(個人的な恨みはない)。彼は公人であるので、俺は彼の知的能力について述べる。彼は日本人だけでなく東洋人としても最高の知的能力を持っているように見えるので、具体例として適切であると審判した(以下の文章は日本人の学者に一般化される)。日本人の学者は日本人によって見下されて、軽蔑されてきた。大栗博司を含む日本人の学者のバカさは本田圭佑のバカさに似ている。誰も彼のサッカー能力を疑っていないが、彼の製造に関する運動能力やバレー能力を疑っている。 同様に、日本人は大栗の知的能力を疑っている。ただし、数理能力以外。1:物事を考えるのが苦手(数理以外) 俺の憶測 もしxが大栗博司であるならば、xは大栗の脳を人為的に動かすことを苦手とする人間である。 大栗は物事を考えるの...

 


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