なぜ宗教や信仰は科学や数学よりも重要であるか?

 この信仰では、俺らは信仰や宗教を科学や数学よりも重視する。以下で、俺らはその理由を提示する。結論から言うと、脳の正当な運動や行為は宗教によって与えられる

もし宗教がないならば、それが与える脳の正当な行為は存在しない。その時、たとえある人間が数学や科学に長けているとしても、その人間は日本人の大学教員のようにはちゃめちゃな思考を繰り返す。日本人の学者の脳は遺伝的に劣等でないが、脳の運動や行為に対する正当な何かが存在しない。

その結果、彼等は彼等の脳をめちゃくちゃに動かす。子供に銃を与えると、彼等は善悪の判断を下せないので、銃を乱射する。宗教がないとはこの行為に近い。

1 車体の全体運動と部分運動

 共通認識 全動とは、車体全体が動く運動である。部動とは、車体の部分が動く運動である。

1 全動の具体例

 走る運動や飛ぶ運動や泳ぐ運動は全動の具体例である。

2 部動の具体例

 脳の運動や話す運動や手足の運動は部動の具体例である。脳の運動には、記憶行為や情報の消化行為や計算行為や引用行為が存在する。さらに、審判行為や判断行為、意味の把握行為も存在する。

話す運動には、叫ぶ行為や喚く行為が存在する。重要なことは信仰者が脳の運動(考える行為)や話すと言う運動を ‘ 運動 ‘ と把握することである。人々の一部は考えることを脳の運動とどうしても認識できないように見える。

2 車体の運動と善悪

 経験則1 もしxが数理情報であるならば、xは善悪を持たない情報である。

 経験則2 もしxが善悪を持たないホモ・サピエンスであるならば、xは肉体の運動を制御、管理、統治できない動物である。

 善悪は自然界には存在してこなかった。だから、人間は宗教を創造して、善悪を人工的に創造してきた。例えば、殺人行為(運動)は善であるか悪であるか(レッドカード)である。

上記の経験則が正しいと仮定すると、たとえ俺らが数学や科学を学ぶとしても、俺らは車体に対する正当な行為(運動)を獲得できない。脳の運動は部分運動、つまり部動である。だから、もし全動に対する善悪が必要であるならば、部動に対する善悪も同様に必要になるだろう。

実際、日本人の学者を見る時、彼等は彼等の車体全体の運動も脳の運動も全く制御できていない。だから、彼等は非論理的で、すぐに騒いで奇声を発生する。なぜなら、彼等の車体の運動(行為)には、善悪が存在しない。

3 車体の運動に対する善悪と宗教(信仰)の必要性

 経験則3または仮説 宗教→脳の行為に対する善悪(レッドカード)→適切な脳の運動→秩序立った文明的な脳の運動

 もしある人間が彼等の車体の運動に対する善悪を持たないならば、その人間は彼の車体を適切に制御、管理、統治できない。その時、その人間の脳の運動はめちゃくちゃに動く。実際、日本人の学者の脳はめちゃくちゃに動く。

彼等の脳の遺伝的な性質は劣等でない。しかし、彼等は脳の運動に対する善悪を持っていないので、彼等の脳の運動はめちゃくちゃである。その結果、彼等はバカに見える、

彼等の馬鹿さは遺伝的に優秀な球蹴り選手が球蹴りの決まり事を理解できずに、めちゃくちゃに運動するような馬鹿さである。日本人の科学者や数学者は宗教は不要であると述べてきた。しかし、俺は宗教は科学者や数学者にも必要であると審判する(経験則2による。)

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