知性とは脳の正当な運動性

 この信仰では、俺らは知性を脳の運動性と認識する。日本人の学者は知性という単語をちやほやされるための雰囲気で扱ってきた。日本人は彼らを完全なる馬鹿であると認識してきた。

なぜなら、彼らの脳の運動能力の種類の数は少なく、審判能力や判断能力を持っていない。さらに、彼らの致命的な欠点は彼らは脳の運動の正当な行為を認識できないことである。肉体の運動に対して、正当な行為が認識、または信仰されるように、脳の運動にも正当な行為が認識、または信仰されるだろう。

しかし、日本人の学者は彼らの脳に対する正当な運動に全く興味を持ってこなかった。彼らは ” 正当性 ” という状態すら認識できないように見える。彼らはただ白人の発言を記憶して引用して見せびらかしてきた。

1 知性への認識

 共通認識 知性とは脳の正当な行為である。

 脳の運動と行為を省略して ” 脳動 ” と ” 脳為 ” と呼ぶ。義務的な行為や実現的な行為を人為と呼ぶので、脳の人為を ” 脳人為 ” と呼ぶ。脳は車体の一部であり、車体の行為にも正当な行為が認識、認識される。

同様に、俺らは脳の行為に対しても、正当な行為を認識、信仰する。簡単にいうと、知性とは脳の正しい動かし方である。知性は知識や数理能力でない。

誤解(記憶や数理能力と知性)

 この信仰では、俺らは知性を記憶(知識)や数理能力と認識しない。それらは重要な知的能力の一種である。数理能力は力の強さに似ている。たとえある人間が強い力を持つとしても、もしその人間が他人を殴るために、その力を使用するならば、誰もその人間を尊敬しないだろう。

なぜなら、その人間は彼の車体や肉体の正当性を認識できてこなかった。日本人の大学教員が馬鹿に見えるのは、彼らは彼らの脳を正当に行為させられない。実際、菊池誠などの学者気取りの発言はめちゃくちゃで誰も彼とまともに会話できない。

彼らの発言は支離滅裂であり、都合が悪くなる喚いて他人を幻滅させてきた。にも関わらず、彼らは痴呆老人や知的障害者のようにその事実に気づいてこなかった。

脳の行為の正当性と自然界

 脳の行為の正当性は自然界には存在しない。一般的に、行為の正当性は自然界には存在しない。だから、俺らはその正当性を人工的に創造する必要があった。

現在の世界とは、知性は自然界の正確な表現に関係あるものとされているように見える。しかし、この信仰では、知性はそのような何かでない。知性とは、行為の正当性である。

つまり、たとえ俺らが自然界を探求するとしても、俺らは何が知性であるかを認識できない。行為の善悪(レッドカード)が自然界によって知られない。

なぜ日本人の学者は馬鹿に見えるか?

 日本人は日本人の学者を馬鹿にしてひどく軽蔑してきた。なぜなら、日本人の学者は彼らの脳の行為の正当性を持ってこなかった。彼らの脳の運動は文字通りはちゃめちゃであり、日本の街の景観のようである。

彼らは球蹴りの授業中にハンド行為を繰り返す知的障害者に似てる。この種の動物は彼ら自身の善悪や正当性を持たないので、授業中にめちゃくちゃな行動を繰り返す。正当な行為になしに、授業は円滑に進まないように、脳の運動も正当性なしに機能しない。

特に、彼らの会話行為はめちゃクチャである。彼らは白人の考えを延々と繰り返すが、俺はその行為を正当と認識しない。日本人の学者は脳の正当な行為を認識できないので、彼らの会話行為もまた支離滅裂である。

2 知性への探求

 共通認識 知性への探求とは、ヌシが脳の正当な行為を探求する行為である。

 この信仰では、俺らは知性への探求を上記のように認識する。そこでは、知性は自然界を正確に表現することでない。歴史の詳細を明らかにすることでない。

知性への探求は行為の正当性への探求と同様に非常に宗教的な営みである。

具体例(論理)

 論理的な推論は脳の運動や行為の一種である。この行為が正当であるかは論理学の世界や自然界には存在しない。だから、俺らは知性への探求で、その行為の正当性を扱う。

例えば、日本人の学者は論理に関する知識を持っているが、論理的な脳の運動が正当であるかを判断できない。その結果、彼らは「人類皆平等。男女平等。二重国籍欲しい。なぜなら、欧米では、二重国籍が認められてる」と一瞬で矛盾する発言を繰り返してきた。普通に考えれば、二重国籍と平等は互いに矛盾している。

しかし、彼らは脳の正当な行為を認識できないので、この種の発言を繰り返してきた。彼らの行為はサッカーの選手がハンドを繰り返すような愚行である。彼らは彼らの脳に対する善悪を持たないので、指摘されるとしても、なぜその行為が正当でないかを判断できない。

具体例(引用と記憶)

 日本人の学者は他人の引用と他人の発言の記憶ばかりを繰り返してきた。この種の行為は正当であるか。知性への探求では、彼らの行為の正当性を扱う。

脳の正当な管理と統治

 俺らが俺らの脳を対象として扱うとき、それは俺らのヌシによる管理・統治対象になる。人間に対する正当な管理法や統治が問題になってきたように、俺らは俺らの脳の管理法も問題とする。

3 知性と経験則

 経験則 もしxが脳の正当な運動性を持たない対象であるならば、xは支離滅裂な発言を繰り返す対象である。

 支離滅裂とは、矛盾や意味不明な発言を繰り返す状態である。上記を例えると、運動神経の良い球蹴り選手がハンド行為やラグビー行為を繰り返すような行為である。たとえある人間が最も優れた運動神経を持つとしても、もしその人間が彼の行為に対するレッドカードを持たないならば、その人間の行為は少年漫画の話の展開のようにめちゃくちゃである。

具体例(西洋の引用)

 日本人の学者は西洋の都合の良い部分を自分勝手に引用して来た。しかし、彼らは儒教的な ” 先生 ” と呼ばれることを絶対に止めようとしない。たとえ俺がこれを指摘するとしても、日本人の大学教員(菊池誠や大栗博司)は先生と呼ばれてちやほやされることを止めようとしない。

さらに、彼らは欧米を持ち出して、欧米では博士号が評価されてると主張する。要するに、最もちやほやしろである。もし彼らが西洋式を採用したいならば、東洋の先生を廃止すべきである。もし彼らが先生を採用するならば、西洋式を持ち込むべきでない。

しかし、彼らは先生と呼ばれたい、かつ博士号も評価されたいと感じて来た。その結果、大栗や菊池の発言は支離滅裂である。結局、彼らは白人の審判や推論の記憶者であって来た。彼らは彼ら自身の脳の運動に善悪を持ってこなかったので、彼らが何かを彼ら自身で思考するとき、彼らの発言は支離滅裂になる。

具体例(大学の自治と自由)

 日本人の学者は大学の自治を主張してきた。ある非常識な学者が存在して、彼が契約相手をばかと電網上で侮辱した。その時、日本人の一部は彼の友人の学者に彼への注意を促した。

その行為に対して、日本人の学者は学者は自由であるからと返答した。この種の学者は大学の自治を主張してきたが、都合が悪くなると、自由と言って逃げる。もし彼らが自治を主張するならば、彼らは彼らの組織の構成要素をきちんと自治する必要がある。

たとえ俺がこの主張を彼らに提示するとしても、彼らはその主張の意味を把握できない。なぜなら、彼らはこの場合における脳の正当な運動を認識できない。

具体例(ノーベル賞と日本国)

 日本人の学者は学問は国際的なものであり、国家は関係ない。国家は国粋主義であると主張してきた。にも関わらず、予算が減らされそうになると、彼らは日本国の科学がどうなっても良いのかと恫喝する。

もし国際が重要であるならば、日本国の科学がどうなっても良い。彼らはこの推論行為の意味を把握できない。

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