日本人の医者や科学者(物理学者)や数学者を宗教に嵌める方法

人間について
https://www.fnn.jp/articles/-/3093
なぜ林郁夫と石川公一と中川智正と富永昌宏はオウム真理教にはまったか?
 この時期だとオウムのサリン事件をどうしても思い出してしまう。あのとき、オウムに入れ込んだ高学歴の連中の数名は自分と同世代、いや、友人の友人くらいの関係で、実際に同じ講義に出ていたのもいた。巷では「優秀な」連中がなぜ?と言われていたが、ほんとのところ、殆どは研究室のお荷物だった。 以下で、俺は " なぜ医者がオウム真理教にはまったか " について提示する。一般的に、日本人は対象それ自体を認識できないので、雰囲気や情緒的な何かしか提示できない。上記のような " 研究室のおちこぼれ→オウム真理教 " という推論は完全に間違いである。もしこの推論が正しいならば、毎年オウム真理教にハマる学生が生じてくる。しかし、それは現実でない。人生における挫折の結果、彼らはオウムにはまったのか?この種の考えは単なる物語的(narrative)な消費である。物語は推論でなく、わかったつもりになっているだけである。俺は自称新興宗教の教祖であるが、この立場からのべる。そもそも宗教とは何か? 宗教に対する認識 宗教は一種のsystemであり、それはバラバラのホモ・サピエン...

 以下で、俺は医者や科学者、物理学者や数学者を宗教に嵌める方法を提示する。一般的に、彼らは宗教から最も遠い人間であると人々によって感じられてきた。歴史を見ると、医療と学問は宗教に最も近くあってきた。

日本人の科学者や数学者や医者は宗教を馬鹿にしてきた。しかし、この行為は非常に危険である。彼らは宗教の意味を把握できない。

なぜ医者や学者の卵がオウムにはまったのか、彼らはその意味を把握していない。

洗脳のための準備

自然界と善悪

 実際の状態 自然界には、善悪(正当性)は存在しない。この状態を無善悪(状態)と便宜的に呼ぶ。

 善悪は自然界には存在しない。人間はこれを経験則として認識してきた。

 経験的推論 もしxが無善悪であるならば、xはそこで人間社会が形成されない状態である。

 善悪の判断が存在しない。これはレッドカードのないサッカーの試合と同じである。その時、その試合は正常に機能しない。同様に、もしレッドカードが存在しないならば、人間社会という試合も形成されない。

真理の定義

 真理の定義 自然界に存在しない対象を無自と便宜的に呼ぶ。真理とは、正当性を持つ無自である。

 科学的な情報は真理でない。それは自然界の正確な表現である。真理とは自然界に存在しない。そして、それは正当性を持つ必要がある。

行為とその正当性

 定義 正当行為とは、正当性を持つ行為である。非行為とは、正当性を持たない行為である。

 行為は正当行為と非正当行為に分けられるとする。

 経験的推論 もしxが正当行為であるならば、xは人々によって認められる行為である。もしxが非行為であるならば、xは人々によって必ずしも認められるとは限らない行為である。

 一般的に、人々は正当な行為を認める。もしある行為が正当でないならば、人々はその行為を認めないか、拒否する。

提示

 医療行為は行為である。医療行為は医療正当行為と医療非行為に分けられる。もしxが医療正当行為であるならば、xは人々によって認められる行為である。もしxが医療非行為であるならば、xは人々によって必ずしも認められるとは限らない行為である。

科学的行為は行為である。科学的行為は科学正当行為と科学非行為に分けられる。もしxが科学正当行為であるならば、xは人々によって認められる行為である。もしxが科学非行為であるならば、xは人々によって必ずしも認められるとは限らない行為である。

医学と行為

 経験的推論 もしxが医学、または医療であるならば、xは正当性が要求される分野である。

 一般的に、医療には、正当な行為(正当な医療行為)が要求される。しかし、その正当性は自然界には存在しない。もし正当な行為が要求されないならば、どんな医療行為も正当化される。

科学と行為

 経験的推論 もしxが科学であるならば、xは正当性が要求される分野である。

  一般的に、科学には、正当な行為(数理情報の正当な製造)が要求される。しかし、その正当性は自然界には存在しない。もし正当な行為が要求されないならば、どんな数理情報の製造も正当化される。

論理的推論と行為

 数学では、論理的な推論が要求される。そして、その推論には、正当性も要求される。

実際の洗脳

 経験的推論 もしxが宗教であるならば、xは行為の善悪(正当性)を与えてきたsystemである。

 宗教は行為の善悪を提示してきたので、宗教の需要は継続してきた。宗教と学問の違いの一つは、善悪である。学問には、善悪は存在しない。もし学問が善悪を扱うならば、その学問は宗教である。

 経験的推論 もしxが医療であるならば、xは正当性を与えてきていない分野である。もしxが科学であるならば、xは正当性を与えてきていない分野である。

 科学それ自体や医療それ自体は正当性を与えない。たとえ科学者が自然界の全てを明らかにするとしても、善悪の判断はそこに存在しない。たとえ医者が医療の全てを明らかにするとしても、そこに医療行為の正当性は存在しない。

 経験的推論 もしxが真理を求める科学者であるならば、xは宗教を持たざるを得ない人間である。

 自然界には、善悪は存在しない。しかし、もし科学者が科学的な行為を求めるならば、人間は人間社会を形成する必要があるので、情報の製造行為に対する真理が要求される。真理は自然界には存在しない。

もし製造行為が正当性を持たないならば、人々はそれを正統と認識しないし、認めない。科学者は真理を提示する必要がある。科学それ自体は数理情報の製造行為の正当性を与えない。

宗教は善悪、つまり行為の正当性を与える。宗教は数理情報の製造の正当性を与える。 だから、宗教は必要である。

 経験的推論 もしxが医療における真理を求める医者であるならば、xは宗教を持たざるを得ない人間である。

 自然界には、善悪は存在しない。しかし、もし医者が医療行為を求めるならば、人間は人間社会を形成する必要があるので、医療行為に対する真理が要求される。真理は自然界には存在しない。

もし医療行為が正当性を持たないならば、人々はそれを正統と認識しないし、認めない。医者は真理を提示する必要がある。医療それ自体は医療行為の正当性を与えない。

宗教は善悪、つまり行為の正当性を与える。宗教は医療行為の正当性を与える。だから、宗教は必要である。

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