知覚と認識と信仰

俺らの信仰
https://en.wikipedia.org /wiki/Eye

 以下で、俺は知覚と認識と信仰という単語を認識、信仰する。この信仰では、俺らは特別な意味や解釈をそれらの単語に込める。ただし、俺は以下の行為を現時点できちんと認識できていると審判しない。

1 知覚

 共通認識 知覚とは、ヌシが自己の蟲を捉える運動である。

 捉えるという行為が何であるかは現時点で不明である。蟲起きとは、自己の蟲が自動的に立ち上がる運動である。俺らのヌシは蟲起きされた蟲を捉える(知覚する)。

日常的には、知覚とは、人間や実験機械が物体を検出する運動である。物体はエネルギを持った存在である。この信仰では、日常的な知覚行為を ” 検出運動 ” と呼ぶ。

俺らのヌシは物体それ自体を直接的に捉えられない。だから、俺らのヌシは自己の蟲を通して、物体それ自体を間接的に捉える。

知覚対象(知覚未分化)

 知覚対象(知覚未分化)とは、ヌシが知覚する、知覚できる対象(未分化)である。ただし、この対象という単語はこの信仰的な意味での対象でなく、対象化される前(切り取られる前=未分化)の世界である。知覚できるが、対象化されていない状態も認識される。

時間と知覚

 ヌシは過去及び未来における対象を実際に知覚できない。それらは現在の知覚から信用的、または機械的に構成される。過去は知覚されないが、その過去は仮定でなく実際の対象である。

未来は知覚されないが、確実に生じる未来は実際の対象である。実際の過去とは実際に生じた過去である。実際の未来とは実際に生じるだろう未来である。それらは知覚対象でない。

知覚と存在

 存在はしばしば人間による知覚で定義されてきた。その定義では、存在とは人間が知覚できる何かであった。この信仰では、俺らは存在を集合の要素として、上記の意味での存在を知覚対象とする。

世界が存在するのかは重要でない。重要なことは俺らが対象を知覚できるかである。世界が存在するのかよりも、物質が存在するのかよりも、俺らは世界を知覚できるか、物質を知覚できるかをより重視する。

ただ、コップが存在するかは認識に関する問題である。コップは知覚対象でなく、認識対象である。ボケ老人はコップを認識できないが、認識の原因となる対象を知覚できる。

2 認識

  共通認識 認識とは、ヌシが知覚対象をきちんと対象化し、それを把握する行為である。

 知覚対象を区切ることは認識でなく、対象化行為である。日常的には、認識は対象化の意味で使用されてきたように思える。この信仰では、認識と対象化をきちんと区別する。

簡単に言うと、認識行為とは次である。ヌシが知覚された対象をきちんと対象化する。その後、ヌシはその対象化された対象ときちんと把握する。ただし、捉えると把握するの違いは現時点で不明である。

認識対象

 認識対象とは、ヌシが認識する対象である。例えば、息子や人間は認識対象である。なぜなら、ボケ老人は彼ら自身の息子を認識できなない。しかし、彼らはその対象を知覚している。

また、デザインや数や国家や社会も状態も運動も認識対象である。もっと言うと、単語によって表現される対象の大部分は認識対象である。俺らは知覚された対象を認識して世界を把握している。

もし俺らが認識能力を持たないならば、(人間的な意味での)物質もホモ・サピエンスも認識されない。俺らの脳によって知覚される知覚対象のみが知覚される。

審判と認識

 審判と認識は互いに似ている。審判は一回きりの単発的な行為であり、認識は継続的、かつ固定的な行為である。ある老人が彼自身の子供を彼自身の子供と認識できない時、その行為は審判できないでなく、認識できないと表現される。

3 信仰

  共通認識 信仰とは、ヌシがヌシや他人の蟲を捉える行為である。

 日常的には、信仰とは人間が物質的世界には存在しない対象を捉える行為である。物質世界に存在しないとは、人間が知覚できない対象である。俺らはそれらを把握することを単に信仰と呼ぶ。

簡単に言うと、信仰という行為はヌシが物質的世界から分岐した対象を把握する行為である。

信仰対象

 実際の信仰対象とは、ヌシが実際に信仰する、信仰できる対象である。例えば、ヌシや他人の蟲が実際の信仰対象である。それに対して、仮定の信仰対象とは、ヌシが実際に信仰しない、またはできない対象である。

例えば、物質的世界や蟲的世界、そしてヌシ的世界の創造主は仮定の信仰対象である。なぜなら、俺らはそれらを実際に捉えることができない。ただし、俺らは他人のヌシと蟲を実際に捉えることはできない。

俺らは感覚的な脳の運動によって他人もヌシや蟲を持つだろうと捉えている。なぜなら、俺らは同じ車体を持つ。

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