人間の本質 人間の本質とは、人間(対象)に一対一に唯一対応する人間の性質である。
https://oreranitsuite.com/2020/05/29/preparation-for-grasping-meaning-of-essence-of-human-being/
人間の本質は蟲でない。人間を対象とする時、蟲は人間の本質に一対一に唯一に対応しない。蟲は人間の性質よりも知覚存在に近い。ただし、人間特有の蟲は存在する。なお、俺らは他人の蟲を感じ取ることができないので、それらは信仰的な対象である(現時点では)。
1 人間の本質と蟲
共通認識 もしxが蟲を持つ対象であるならば、xは常には人間でない。
人々の一部は意識を人間の本質とみなす。この種の人々は視界と意識や主体と意識を区別できない。だから、彼らは意識が人間の本質、または意識が彼ら自身であるように錯覚する。
もしxが意識を持つ対象であるならば、xは人間である。この推論が正しいと仮定すると、俺らは猿や哺乳類も彼らの意識を持つ対象と認識するので、猿や哺乳類も人間である。しかし、俺らは猿や哺乳類を俺らと同じ人間であると認識しない。
俺らが哺乳類や猿も意識を持つと認識するとき、猿や哺乳類も人間であるという結論が導かれるが、その結論は俺らの認識に反する。哺乳類や猿も意識を持つと認識すると猿や哺乳類を俺らと同じ人間であると認識しないは正当な認識であるように見える。
だから、俺らはもしxが意識を持つ対象であるならば、xは人間であるという推論が間違っていると審判する。その時、「もしxが意識を持つ対象であるならば、xは常に人間ではない」が正しい推論である。この時、俺らが「哺乳類も猿も意識を持つ」という認識と「猿や哺乳類を俺らと同じ人間であると認識しない」という認識が両立する。
まとめると、俺らは猿は人間でないと認識する。俺らは猿は意識を持つ対象であると認識する。「もしxが意識を持つ対象であるならば、xは人間である」が正当であるならば、猿は人間であるという結論が導かれる。これは俺らは猿は人間でないと認識するに反する。
だから、「もしxが意識を持つ対象であるならば、xは人間である」という推論を正当でないとする。その時、もしxが意識を持つ対象であるならば、xは常には人間でない。この時、猿は常には人間でない(日常的には、猿は人間とは限らない)。
上記の認識は自然である。だから、この推論を正当であると認識する。意識を蟲に置き換えると、蟲に関しても推論される。
視蟲
共通認識 もしxが視蟲を持つ対象であるならば、xは常には人間でない。
他人の視蟲は信仰的な対象である。上記では、わかりやすさを優先するために、便宜的に認識という単語を使用した。俺らは猿や動物も視蟲を持つと信仰する。猿や動物を俺らと同じ人間であると認識しない(この文の認識が認識か信仰かは不明である)。
この認識は上記の派生である。だから、推論は省略する。この信仰では、俺らは意識という単語をあまり使用しない。人々の主張する意識は視蟲である。
俺らは動物も視蟲を持つと信仰する。だから、視蟲は人間の本質でない。上記はその他の蟲にも応用される。現時点で、人間らしい蟲は情蟲や欲蟲の一部である。例えば、動物は金銭欲を持たないし、恨みや憎しみという感情を持たない。