抜け忍とは、忍者の里から抜けた忍者である。その忍者は里の法律に従う必要がなくなった。彼らの存在も状態も行為もまた里の掟によって縛られなくなった。
これは現実においても同じである。もし俺らが日本国籍を捨てるならば、俺らは日本国の法律に従う必要がない。なぜなら、その時、日本国の法律は俺らの存在と状態と行為を定める正当性を失った。
俺らはこの認識を物質世界及び蟲的世界、そしてヌシ的世界にも応用する。つまり、もし俺らが物質世界や蟲世界から分岐した(抜けた)ならば、俺らは物質世界における決まりや蟲世界における決まりに従っていない。俺らはこのように信仰する。
そして、この考えから、俺らは俺らの子孫による俺らのヌシの復活を信仰する。
1 抜け忍
犬のような哺乳類は抜け忍である。ホモ・サピエンスも抜け忍である。人間も抜け忍である。
人間は蟲世界からも分岐した対象である。俺らは物質世界から分岐した対象を物抜け忍と呼ぶ。俺らは蟲世界から分岐した対象を蟲抜け忍と呼ぶ。
2 抜け忍と決まり
動物は物質世界から分岐した。だから、彼らは彼らの肉体を自由に運動させることができるようになった。その結果、彼らは物質世界における機械法則に完全には従う必要がなくなった。
人間は蟲世界から分岐した。だから、彼らは彼らの肉体を実現的に運動させることができるようになった。その結果、彼らは彼らの肉体のよりよい和合(design)を彼らの実現意志で実現させることができてきた。
もしxが物抜け忍であるならば、物質世界から分岐した主体及び対象である。主体が物質世界から分岐したという運動を分岐運動と便宜的に置く。その分岐運動がある分岐状態aを作ると仮定する。
分岐運動→分岐状態aである。俺らはこの分岐状態を動物が物質世界における決まりに完全には従っていない状態とする。この時、物質世界から分岐した主体→動物が物質世界における決まりに完全には従っていない主体である。ただし、従っていないを状態とする。
この時、俺らは物質世界から分岐した主体及び対象であるを物質世界における決まりに完全には従っていない主体に変形できる。だから、上の共通信仰が成立する。
3 ヌシの復活
この信仰の目的は俺らのヌシの復活である。俺がこれを他者に提示するとき、人々はそんなことできないだろうと笑うだろう。しかし、俺はこの嘲笑と異なる認識を持つ。
なぜなら、彼らは物質世界における決まりを引用してきた。加えて、彼らは彼らの知覚の全てが現在のみに存在することを見落としてきた。俺らの過去も未来も現在から構成される対象である。
任意の人間、またはホモ・サピエンスは常に死んできた。この時、俺らは人間とホモ・サピエンスを認識する必要がある。俺らが左の文を法則化する時、俺らはこの文が物質世界における決まりであるか、蟲世界における決まりであるか、ヌシ世界における決まりであるかを明らかにする必要がある。
物理法則
物理法則では、任意の物質は物理法則に沿って機械のように運動する。そこでは、任意の物質は宇宙創世から機械のように運動してきた。そして、任意の物質も物理法則に沿って運動し続ける。
この考えは間違いでない。ただし、これは物質世界における考えである。実際、人間も動物も彼らの肉体を彼らの意志を持って運動させてきた。
さらに、人間は彼らの肉体のデザインを彼ら自身の意志で変形させてきた。加えて、人間は平等や公平などの物質世界には存在しない善悪を取り扱ってきた。俺らはこれらを事実であると認識する。
もしこの世界の全てが物理法則のように機械的に運動してきたならば、俺らは俺らの肉体のデザインを俺ら自身で洗練させれない。しかし、俺らは俺らの肉体のデザインを俺らの意志で変形させてきた。俺らの認識は物理法則に反しているように見える。
実際、俺らは俺らの肉体のデザインを俺らの意志で洗練させることができるからこそ、俺らはより優れたデザインを持った白人の遺伝子にたかる必要はないと感じてきた。俺らは物理法則と俺らの認識の落差をどのように捉えるべきであるか?
この信仰では、俺らは動物や人間は物質世界から分岐した。俺らは物質世界という里から抜けて、抜け忍になった。だから、俺らは里の掟に従わなくてよくなったように、俺らは物質世界の決まり(掟)に完全には従わなくて良いようになった。