以下で、俺はヌシの性質について提示する。なお、その性質の一部は蟲にも一般化される。ここでは、主体と対象の総称を「主対象」と便宜的に置く。
ヌシは俺らのヌシによって信仰される信仰的な存在である。だから、ヌシに関する以下の性質も信仰的な性質である。
1:ヌシの性質
色
ヌシは色を持たない。俺の肉体は色を持つ。俺らはこれを「ヌシの無色性」と呼ぶ。
形
ヌシは形を持たない。俺らの肉体は形をもつ。俺らはこれを「ヌシの無形性」と呼ぶ。
質量
ヌシは質量を持たない。俺らの肉体は質量を持つ。俺らはこれを「ヌシの無質量性」と呼ぶ。
体積
ヌシは体積を持たない。俺らの肉体は体積を持つ。俺らはこれを「ヌシの無体積性」と呼ぶ。
エネルギ
ヌシはエネルギを持たない。俺らの肉体はエネルギを持つ。その結果として、俺らの眼や脳はそのエネルギを知覚(感知)する。俺らはこれを「ヌシの無エネルギ性」と呼ぶ。
2:ヌシの性質その2
現在性
ヌシは現在のみに存在する。俺らはこれを「ヌシの現在性」と呼ぶ。
連続性
俺らは過去のヌシと現在のヌシが同じであるかを審判できない。つまり、俺らはヌシの連続性をよくわかっていない。もしヌシが連続していないならば、俺らはどのヌシを復活させるかがわからない。
俺らの肉体は日常的には連続しているように感じる。だから、俺らは俺らのヌシも連続していると錯覚してきた。しかし、これはきちんと証明されていない。
肉体は連続しているが、ヌシは連続していないかもしれない。実際、肉体とヌシは一意的に対応していない。また、肉体の連続性は理論物理でも興味深い。マクロには、連続性があるように見えるが、ミクロでは、素粒子は連続性を持たなくても、不思議でないように思える。
記録
俺らは俺らの脳を車体やHDと例える。その時、俺らのヌシがその脳の記録を自動的に、または意志的に取り出す。俺らはこの種の印象を持つ。
ヌシそれ自体は何ら記憶を持っていない。記憶は俺らの脳に刻まれている。ヌシがその記録を取り出している。
要素
ヌシはそれ自体の要素を持たない。俺らはこの性質を「ヌシの無要素性」と呼ぶ。
3:ヌシの性質その3
ヌシは対象である。以下で、俺はヌシの存在と状態と運動にについて提示する。さらに、俺はヌシの法則について提示する。
知覚と認識
俺らはヌシを知覚できない。なぜなら、それはエネルギを持っていない。俺らはヌシを認識できない。なぜなら、それは物質に基づいた存在でない。
存在
ヌシは実際の存在である。ヌシは実際の対象である。
状態
ヌシの状態は不明である。
運動
ヌシの運動は不明である。
法則
ヌシに対する法則も不明である。実際、俺らのヌシはなぜ俺らのヌシであるかは不明である。
おまけ:自己のヌシと他者のヌシ
俺らは自己のヌシを信仰する。俺らは他人のヌシも信仰する。しかし、自己のヌシに対する信仰行為と他者のヌシに対する信仰行為は互いに異なる。
俺らは俺らのヌシの存在を感じている。俺らは俺らの視界を捉える主体を感じ取ることができる。しかし、俺らは他者のヌシを感じ取ることができない。
俺らは他者のヌシを俺らのヌシからの類推のみによって信仰する。つまり、俺は俺のヌシを感じ取ることができる。他者は俺と同じ肉体を持っている。
だから、俺は他者もまた俺と同じようなヌシを持っているかもしれない。俺らは他者のヌシの存在をこのように類推する。しかし、これは単なる類推でしかない。
だから、俺らは自己のヌシに対する信仰行為と他者のヌシに対する信仰行為を区別する。前者を内(nai)信仰行為と呼ぶ。後者と外(gai)信仰行為と呼ぶ。
なお、他者の蟲を信仰することも外(gai)信仰行為である。