教祖(創造主)と統治者

人間について

 この宗教で、教祖は人工世界の統治者では必ずしもない。日本列島の宗教では、教祖はまるで統治者のように振る舞った。信者は彼の言葉をまるで神の言葉として崇拝した。

この宗教では、俺らはこの種の教祖観を採用しない。俺らは教祖を人工的な世界の創造主と認識する。また、俺らはその世界の統治者と教祖と区別する。

なぜなら、教祖が死ぬとしても、人工的な世界の統治者は必要になる。当然、俺はこの人工的な世界の創造主であり、実際の統治者ではない。統治行為は創造行為に異なる。

1:教祖(創造主)

 共通認識 教祖は人工的な世界の創造主(創造者)である。

 この宗教では、宗教とは世界と人間(ヌシ)と目的の組みであった。創造主はその組みを創造した対象である。その対象が俺である。

自然界は宇宙と原子と自然法則の組みであった。有神論では、自然界の創造主の存在は仮定された。その場合、その創造主はその組みを創造した。

俺らはこの比喩をこの宗教へと応用する。俺がこの宗教というsystemの創造主である。自然界の創造主が人間にあ〜だこ〜だ言わないように、俺もまたsystemを創造して終了する。

 ただし、要素たるヌシたちは俺に意志を実現するために生きる。これは敬虔な信仰者が創造主の意志に沿って生きるような状態である。

2:統治者

 共通認識 教祖はこの宗教の統治者では必ずしもない。

 当然、教祖は死ぬ。そのあと、教祖はこのsystemを統治し続けることはできない。だから、systemの統治者は別に存在する必要がある。

systemを創造することはそのsystemを統治し続けることでない。この宗教では、俺らはsystemの統治とsystemの創造をきちんと区別する。つまり、教祖自身が高い統治能力を持っているわけでは必ずしもない。

実際、自然界の創造主は自然界の統治者では必ずしもない。人間社会は人間によって統治されてきた。当然、その人間は創造主の意志を組む人間であった。

 この宗教でも、この関係を応用する。つまり、この宗教というsystemの統治者は人工的な世界の創造主である教祖の意志や感情を組んだ人間によって統治され続ける。

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