経験とsystem(陣)と認識

俺らの信仰
https://ja.wikipedia.org/wiki/ジョン・ロックhttps://ja.wikipedia.org/wiki/ジョン・ロック

 この宗教では、俺らは経験をとあるsystemの中での経験と認識する。サッカー経験とは、サッカーというsystemの中での選手(要素)の経験である。人生経験とは、とある人間社会というsystemの中での経験である。

自然界をsystemとみなす時、そこでの運動の蓄積もまた経験である。俺らの経験とは、自然界の中での実際の行為である。俺らはどんなsystemで経験をつむべきかを熟考すべきである。

systemなき経験は存在しない。それはまるで子供の落書きや少年漫画のストーリーに等しい。

1:経験

 共通認識 経験とは、対象があるsystemの中で実際に行った運動(の蓄積)である。

 経験は会社での経験や人生における経験が代表的である。以下で、俺らは経験をsystemの観点から把握する。経験は、一般的に、ある人間が実際に実行した行為と認識される。

自然経験(具体例)

 自然界は宇宙と原子と自然法則の組みである。原子はそのsystemの中で経験を積んできた。

宗教経験(具体例)

 宗教は世界と人間と目的の組みである。人間はそのsystemの中で経験を積んできた。

2:経験と認識

 共通認識 信仰者は経験の意味を把握する。

 運動選手は彼ら自身の経験の意味を把握できない。彼らはがむしゃらに経験してきた。日本人の法律関係者はなぜかキリスト教的な競技で経験を積んできた。彼らの行為は無駄である。

もし俺らが経験の意味を把握できないならば、俺らは性的に搾取される児童と同じ状態になる。俺らはそれを防止する。俺らはどのようなsystemで、どのような実際の行為を実行してきたかに着目する。

3 正当な経験と無駄な経験

 共通認識 正当な経験とは、正当なsystemの中での経験である。それはある対象が正当なsystemの中で実際に行った経験である。

 例えば、運動競技を想像する。一部の運動選手は彼らの過去を振り返って、今までの人生はなんであったかと感じる。つまり、その人生は無駄であったように感じる。

なぜなら、彼らは運動競技というsystemの中での経験を正当と認識できてこなかった。この考えは宗教や自然界というsystemにも応用される。

物質的世界における経験

 この宗教の目的は分岐である。だから、俺らは物質的世界における経験を過剰に重視しない。ただし、俺らは俺らのヌシを認識するとき、俺らは俺らの脳を人為的に運動させて、ヌシを捉える。

この行為は物質的世界における経験であるかもしれない。もし蟲的世界やヌシ世界がsystemであるならば、俺らは3重のsystemでの経験を重視する。

知覚は物質的世界における経験。自由な行為は蟲的世界に対応。

宗教

 ある人間がある宗教を信仰するとき、その人間はその宗教というsystemで経験を積むべきかと疑問に思う。そのとき、その人間は宗教というsystemの正当性に着目する。もしその宗教が正当性を持つならば、そのsystemにおける経験は無駄でない。

つまり、その宗教を信仰することは無駄でない。そのsystemの中で経験を永久的に詰むことは素晴らしい。正当。

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