自由の意味〜自由は人間の本質か?〜

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https://ja.wikipedia.org/wiki/チンパンジー

 西側白人の世界では、自由という概念が重視されてきた。その結果、言論の自由や学問の自由という概念がその自由から導かれてきた。この自由は自由意志の自由でもある。

しかし、日本人の大部分、学者ですら自由の「意味」を把握できてこなかったように思える。彼らは自由という概念になんとなく賛成してきた。彼らは自由の意味を把握できず、かつ自由を彼ら自身の人間の本質と認識してこなかった。

以下で、始めに、俺は自由の「意味」を俺なりに提示するつもりである。次に、俺は自由の背景を提示する。最後に、俺は自由が人間の本質でないこと、そして将来における人間の本質が何であるかを提示するつもりである。

1 自由の意味

 自由や自由意志の意味には、「人間と動物を区別する」という意味と「国家の構成要素を定義する」という意味が存在する。つまり、もしある対象が自由意志を持った対象であるならば、その対象は人間である。または、人間とは、自由意志を持った対象(生物)が人間である(俺はこの文を嫌うけど)。

俺らがある対象が人間であるかを審判したい時、俺らはある対象の持つ自由意志から、その対象が人間であるかを審判する。人間を判定するための手段が自由という概念である。簡単にいうと、自由は誰が人間を定義する。

西洋では、人間の本質が自由である。だから、西洋人は自由の上に法律や富の所有や国民国家の構成要素を構成してきた。もし人間の本質としての自由が否定されるならば、その上の法や富の所有や国民国家の構成要素も正常に機能しない。

 なぜ俺らは人間と動物を区別する必要があるのか?なぜなら、俺らが法律を人間に適用する時、俺らは人間の定義を必要とする。殺人罪の適用対象は動物でなく人間である。

俺らが殺人行為を定義する時、俺らは人間の定義を必要とする。殺人行為とは、人間が人間を殺す行為である。この行為が成立するためには、主体と対象たる人間の定義が必要になる。

さらに、俺らが富を所有する時、俺らは人間の定義を必要とする。なぜなら、所有の主体は動物でなく人間である。そして、動物は所有される側であり、人間は所有する側である。

もしある対象が自由意志を持たないならば、その対象は人間でない可能性がある。たとえその対象が俺らと同じ形を持つとしても、その対象は必ずしも人間であると言えない。その対象は「富」として人間によって所有され、処分される可能性がある。

 現実的には、俺らが国民国家の構成要素を定義する時、俺らは人間の定義、つまり自由や自由意志を必要とする。国民国家を国家(領土)と国民と法律の組みと仮定する。国民国家が成立するためには、国民の定義が必要である。

日常的には、国民とは国籍を所有する人間である。この時、人間の定義が必要である。上記では、俺らは人間の本質を自由意志の中に見出したので、俺らは国民を自由で定義する。

国民とは、国籍を所有する自由意志を持つ対象である。もし俺らが人間の本質が自由であることを否定するならば、国民国家における国民が成立しない。だから、もし俺らが国民国家という制度に賛成するならば、俺らは人間の本質を自由と定義する必要がある。

2 自由の背景〜奴隷と家畜〜

 コーカサス人種の文明、特に西側白人の文明(西洋文明)は奴隷文明である。彼らは奴隷や家畜の存在を前提として彼らの文明を形成してきた。彼らにとって奴隷は不可欠な存在であり、かつ身近な存在であった。

昔から、西側白人は家畜や奴隷を近くで見てきた。近代では、彼らは黒い奴隷を所有して、彼らを苦しめてきた。彼らがその黒い奴隷を見るとき、彼らはその黒い奴隷は自由でないと感じた。

その奴隷は彼ら自身の人生を彼らの意志で決定する「自由」を持ってなかった。彼らは奴隷の主の都合で所有され、処分され、そして文字通り家畜のように交配(現在では多様性)させられてきた。この時、西側白人が人間と奴隷の違いや人間の本質を「自由」の中に見たことは自然である。

「俺らが奴隷を見るとき、人間と奴隷の違いは自由の中にあるように見える。だから、俺らは自由であるとき、俺らは奴隷でないと…。」

「自由こそが人間と奴隷を区別する。」

「自由でないのは絶対に嫌だ。なぜなら、その状態は家畜や奴隷と同じ状態なのだから…。」

3 将来における人間の本質

 近代における西側白人は人間の本質を自由と定義した。しかし、俺の印象では、俺は人間の本質は自由でないと審判する。つまり、自由や自由意志は人間とそれ以外の下等な対象を区別することはできない。

俺らが鷲やチンパンジーのような野生動物を観察する時、俺らはそれらの野生動物は彼らの肉体の行為を彼らの自由意志で操縦しているように見える。つまり、野生動物も人間と同様に自由意志を持っている。ただし、家畜や奴隷の自由意志は羊飼いによって非常に制限されているので、自由に見えない。

すなわち、自由であることは野生動物と同じことである。自由な状態では、人間は野生動物と同じ状態になるので、人間は動物化する。この時、人間は人間の本質を投げ捨てている。

 では、何が将来における人間の本質であるのだろうか?

 俺の印象では、将来における人間の本質とは、「(主体的な)義務」であり、「実現」である。自由意志でなく、「義務的意志」や「実現的意志」が人間と下等な対象を明確に区別する。俺らが生物や物質を観察する時、生物は彼ら自身の義務に沿って生きてこなかった。

獣は獣の肉体を自然法則の下で自由に行為させてきた。しかし、人間はそうでない。人間は義務感を持ち、その義務に沿って、彼らの目的を意志的に実現させてきた。この状態こそが人間と動物を区別する。

ここで、一つの問題が存在して、それは「義務の正当性」に関する問題である。もし人間の本質が自由でなく、義務であるならば、どのような義務が正当であるか?それとも、この世界に存在する全ての義務は人間の本質を与えるのだろか?

 自然界には、善悪が存在しない。同様に、自然界には、人間の本質を与える義務や何を実現させるべきかは存在しない。ある人間はこの世界の創造主たるアッラーの意志に沿って生きることを人間の本質を与える義務と定義するかもしれない。

俺らが人間の本質を自由と定義する時、俺らは自由の正当性に関する問題を考える必要はなかった。なぜなら、自由という状態は中東でも東洋でも西洋でもインドでも同じであった。それに対して、義務は自由と異なり、義務の正当性に関する問題が存在する。

義務の正当性は人種や宗教、そして文明によって異なるだろう。だから、もし俺らが人間の本質を義務や実現に見出すならば、俺らは中世のような宗教戦争を避けて通ることはできないだろう。さて、俺ら東洋人、東洋文明はどのような義務を人間の本質を認識して、何を実現させるべきであるのだろうか?

まとめ

 俺らが国民国家や法律の適用対象を考える時、人間の定義が必要になる。人間とそうでないものの境界を定める必要がある。その定義の後、国民国家や法律が実際に機能する。

西洋では、西洋人は人間の本質を自由の中に見た。つまり、彼らは自由な対象や自由意志を持つ対象を「人間」と定義した。その後、彼らは人間の本質たる自由の上に、国家制度や法律を築き上げていった。

その時、彼らの国家制度である国民国家と法律が実際に機能するようになった。しかし、俺は人間の本質は自由でないと審判する。もし人間の本質が自由でないならば、自由の上に築き上げられてきた西洋文明は21世紀のうちに機能不全になるだろう。

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