認識と信仰と存在

俺らの宗教(主体)
https://en.wikipedia.org /wiki/Eye

 朝鮮人は日本人と朝鮮人という名前を悪用する。その行為に対して、日本人は彼の行為を注意する。その後、朝鮮人は「日本人の定義は何であるか」と返答する。

朝鮮人は定義を質問して、日本人を黙らせたい。そうして、彼らは彼らの不安から逃避して安心感を覚えたい。しかし、この種の態度は非常に不誠実である。なぜなら、彼らは誰が日本人であるかを明確に「認識」している。

ひどい時には、一部の人間は「日本人は存在しない」と発言した。しかし、もし日本人が存在しないならば、たとえ日本人が異人種や異民族を絶滅させるとしても、その主体は存在しない。しかし、彼らはこの文に反対する。

 なぜなら、彼らは日本人を認識してきた。

 以下で、俺は認識と存在について語ろう。

1:認識と存在

 認識と存在 もしある対象が俺らによって認識される対象であるならば、その対象は実際に存在する対象である。

 上記の文の左から右への変形を思いつかない。認識されることは知覚された対象を把握することである。例えば、痴呆老人は息子を知覚できるが、それが息子と認識できない。

具体例(日本人)

 もし君が大和民族を認識するならば、大和民族は存在する。もし君が大和民族を認識しないならば、たとえ大和民族が異人種や異民族を虐殺するとしても、君は大和民族を批判すらすることができない。

具体例?(数)

 人間は数を認識する。けれども、数それ自体はエネルギを持たない。数は存在よりも、対象たちの状態に近い。

具体例?(平等や公平)

 人間は平等な状態や公平な状態を認識する。けれども、それらはエネルギを持たない。対象の存在のある状態が認識されているように思える。

2:信仰と存在

 信仰と存在 たとえある対象が俺らによって信仰されるとしても、その対象は実際に存在する対象とは限らない。

 信仰されるが何かはわからない。

具体例(創造主)

 人々は創造主を信仰してきた。けれども、たとえ俺らが創造主を信仰するとしても、創造主は実際に存在するとは限らない。これが日本人の存在と異なる。

具体例(善悪)

 人々の一部は平等を善と信仰してきた。けれども、男女平等が善であるかはこの世界に存在しない。

3:蟲やヌシは存在か

 蟲とヌシと存在 もしある蟲が俺らのヌシによってxされる対象であるならば、その蟲は実際に存在する対象である。もしあるヌシが俺らのヌシによってyされる対象であるならば、そのヌシは実際に存在する対象である。

 俺らは俺らの車体を知覚する。この行為から、俺らは俺らの車体が存在する事を共通的に認識する。では、俺らの蟲やヌシは認識される対象か信仰される対象か?

蟲は物質的な世界を基盤として生じる。だから、蟲は認識される存在であるように感じる。それに対して、俺らはムシを捉えるが、この行為は信仰であるか?

しかし、俺らは創造主を信仰することとヌシを信仰することは互いに異なるように感じる。なぜなら、ヌシは俺らの肉体や蟲を基盤としている。創造主には、この基盤が存在しない。そこで、俺らは便宜的に新たな動詞を与える。

1 捉える?

 俺らのヌシが俺らの蟲やヌシを把握する、または捉える。俺らはこの世界の創造主を把握したり、捉えたりできない。だから、蟲やヌシに対するこの単語は適切である。

しかし、この単語では、俺らは他人の蟲やヌシを把握する、または捉えれない。日常的には、俺らはそれらを連想している。または、文字通り信仰している。

自己のヌシや蟲は把握され、捉えられる。しかし、他人の蟲やヌシは捉えられないし、把握されない。では、どのような動詞を与えるべきか?