菊池誠(キクマコ)は左翼やリベラルか?彼の卑しい本音

大和民族について
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 菊池誠(キクマコ)は自己を左翼やリベラルと呼んできた。しかし、俺は彼は左翼でもリベラルでもないと審判する。以下で、俺は菊池の卑しい本音を提示する。

1章 菊池の本音

 なぜ菊池は左翼やリベラルを名乗るのだろうか?その理由は以下である。

マウンティングとちやほやされたい

 菊池は白人様の価値観や視点、考えを悪用して、日本人にマウンティングしたい。自称スペイン系フィリピン人や西側白人との中間種は彼自身の遺伝子や白人の価値観で、日本人を人種的に侮辱して、マウンティングするような行為である。実際、この種の中間種やフィリピン人は存在する。

結局、菊池の行為はキャバクラ的な政治と同じである。キャバクラで、美人なキャバ嬢にマウンティングして、説教して、気持ちよくなる。彼の政治活動はこんな感じである。

先生とおだてられて、気分良くなって、ハッピーになって終わり。

白人になりたい、認められたい

 菊池の政治活動の目的とは、彼は白人になって、白人によって認められることである。これは大和民族の雌が白人と結婚した後、この種の動物がなぜか色付きを人種的に侮辱する行為に似ている。この種の動物は白人と結婚すると、それらは白人になったような気分に陥り、色付きの同胞を見下す。

菊池も同じであり、彼は自己を色付き(モンゴロイド人)と認識できない。彼が白人の思想や価値観を掲げる時、彼は白人になった気分になる。その時、彼は彼自身が醜いモンゴロイド人であることから、逃避できて、彼は気持ちの良い気分になれる。

加えて、彼は白人によって褒められて、認められる。白人気分と白人に愛される、すなわち一石二鳥である。

対峙回避と責任回避

 菊池は彼自身を左翼やリベラルと呼ぶ。なぜなら、その時、彼は誰とも対峙しなくて良い。彼にとって、左翼やリベラルとは、誰とも対峙しなくてもよい思想である。左翼やリベラルをやって綺麗事を主張すれば、誰とも対峙しなくて済むので、彼は左翼やリベラルをやっている。

彼は白人と対峙したくないので、彼は白人と同じ思想、つまり左翼やリベラルを名乗る。加えて、彼は朝鮮人や中国人とも対峙したくないので、彼は彼自身を左翼と呼んで、中国人や朝鮮人に優しくして、彼らとの対峙を回避しようとする。

菊池は人間社会における社会形成や他者との対峙を日本人に押し付けたい。右翼的な白人や危険な朝鮮人との対峙は右翼や保守の日本人にやらせれば良い。彼はこう考えている。

 左翼やリベラルをやっていれば、彼は歴史的な義務や責任を負わなくて良い。彼はこう考える。実際、左翼やリベラルは白人の考えであり、たとえ菊池が左翼やリベラルを実行することにより、日本人が死ぬとしても、彼はその責任を負わなくて良い。

彼は上記のように考える。なぜなら、菊池は白人の考えを引用しただけであり、彼は何も悪くない。彼は何も知らない。悪いのは白人。彼の心理はこんな感じである。

2章 政治活動と善悪とその正当性

 以下で、俺は政治活動における善悪とその正当性を提示する。大和民族の学者は土人や未開人であるので、彼らは人間社会を形成できない。政治活動は人間社会における一種の競技に等しい。彼らは政治活動という競技を実行できない。

1節 政治活動における善悪

 政治活動に限らず、人間が社会における行為を実行するとき、人間はその行為の善悪を考えるする必要がある。これは運動競技を見れば、容易にわかるだろう。サッカー選手が運動競技を実行する時、彼らはハンド行為が悪であると判断する必要がある。

これは政治活動も同じである。西洋社会では、西洋社会に特有の善悪が存在して、その善悪はキリスト教由来である。彼らはキリスト教の善悪に沿って政治活動を実行してきた。

一方、政治活動における菊池誠の行為の善悪は何であるのか?菊池は彼の行為の善悪を持っていない。悪いことに、彼は善悪が何かを認識できない。

 彼は善悪を理解できないからこそ、彼はキリスト教徒でないのに、彼は左翼やリベラルをやっている。左翼的な行為の善悪やリベラル的な行為の善悪は当然、キリスト教由来である。

だから、彼はその善悪に沿って政治活動を実行すべきでない、もし彼がキリスト教徒でないならば。彼の行為は、まるで卓球選手がサッカーのレッドカードに沿って競技するような行為である。

2節 政治活動における善悪の正当性

 善悪には、正当性が存在する必要がある。例えば、ある白人がある行為を悪と判断する。その時、非白人はなぜその行為が悪であるかという疑問を当然持つ。

この時、俺らは善悪の正当性を人間に提示する必要がある。例えば、なぜ差別が西洋では悪であるのか、なぜなら、差別は罪な行為である。だから、差別は悪である。差別という悪はキリスト教的な罪の概念によって正当化されている。

左翼的な行為やリベラル的な行為の善悪の正当性は、キリスト教的な罪や彼らの創造主によって与えられている。しかし、菊池は政治活動における行為の善悪も正当性も認識できない。その結果、彼らの行為は無価値であってきた。

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