両道文明観と競技宗教観

制度
https://ja.wikipedia.org/wiki/陰陽

 以下で、俺は東洋文明における文明観を提示する。人種や文明や宗教が異なるとき、文明に対する定義や認識も異なる。

1編 両道文明観

1章 文明観

認識 文明観とは、文明に対する人間の認識、または定義である。

 西洋人は文明の定義を優先する。東洋人は文明の認識を優先する。だから、俺は認識、または定義とした。

上記の意味とは、文明に対する人間の認識は人種や宗教や文明によって互いに異なることである。つまり、文明という単語に対する西洋人の認識は文明という単語に対する東洋人の認識に一致しない。

人間が自己の社会や文明や宗教を持つ時、人間は異なる文明を認識できる。

2章 文明

認識 文明とは、宗教と人種の組みである。 

 記号っぽく書くと、文明=(宗教, 人種)。人種なしに文明は存在しない。宗教なしに文明は存在しない。宗教は別の記事で提示する。

文明それ自体は宗教でない。もし宗教が文明それ自体であるならば、インドネシアのようなイスラム圏は中東文明になる。しかし、俺らはインドネシアを中東文明に入れないで、東南アジアにおけるイスラム圏と認識する。

また、もし中東文明がヒンドゥー教になるならば、中東文明は死ぬだろうと俺らによって認識される。なぜなら、ヒンドゥー教はユダヤ教やキリスト教やイスラム教に歴史的に無関係である。上記の俺らの認識により、文明は人工的な世界である宗教と生物的な事実の両方によって成立している。

3章 両道文明観

認識 両道文明観とは、人間が文明を宗教と人種の組みと認識する文明観である。

 両道の由来は文武両道の両道である。俺は生人両道文明観と置きたかった。生人は生物人工の頭文字をとった単語である。

白人は生物的な事実と人工的な概念をまるで善悪の二元論のように対立させようとする。それに対して、東洋人は生物的な事実と人工的な概念をまるで陰陽一体のように両立させようとする。俺らが動物(ホモ・サピエンス)であることと俺らが人間(人工的な概念)であることは両立して、互いに対立しない。

同様に、文明もまた人種(生物的な事実)か宗教(人工的な概念)かで対立しない。人種と宗教は同時に両立する。俺らはこのような文明観を採用する。

2編 競技宗教観

1章 宗教観

認識 宗教観とは、宗教に対する人間の認識、または定義である。

 西洋人は宗教の定義を優先する。東洋人は宗教の認識を優先する。だから、俺は認識、または定義とした。

上記の意味とは、宗教に対する人間の認識は人種や宗教や文明によって互いに異なることである。つまり、宗教という単語に対する西洋人の認識は宗教という単語に対する東洋人の認識に一致しない。

人間が自己の社会や文明や宗教を持つ時、人間は異なる宗教を認識できる。

2章 競技宗教観

認識 競技宗教観とは、人間が宗教を人間競技と認識する宗教観である。

 その魚拓(image)はサッカーのような運動競技である。その競技には、競技場と選手と運動の決まりが存在する。より拡張されると、その競技には、サッカー業界と構成員と業界の決まりが存在する。

競技宗教観でも、俺らは宗教をある種の競技と認識する。競技場が存在して、その中に人間が存在して、人間の決まり(法)が存在する。宗教というそのシステムの中で、人間は人間競技を実行する。

人間競技の提示は以下である。

3章 宗教(人間競技)

認識 宗教とは、世界と人間の目的の組みである。

 世界とは、全ての人工物である。人間とは、ホモ・サピエンスと人性の組みである。目的とは、人間が実現する対象の存在及び状態及び運動である。

日常的には、宗教とは、自然界の上の人工的な世界である。または、宗教とは、自然界の上の人工的な家(system)である。

サッカーで例えると、世界が競技場であり、人間が選手であり、目的が決まりに対応する。当然、世界が何であるか、人間が何であるか、目的が何であるかも人種や宗教や文明に応じて異なる。特に、人間が何であるかは宗教によって著しく異なり、上記の人間に対する認識とは限らない。

4章 機能性宗教(機能性人間競技)

認識 機能性宗教とは、宗教的機能を持つ宗教である。

 宗教的機能とは、宗教を機能させる対象である。例えば、宗教的機能には、死生観と性と富と契約(約束)と善悪と刑罰が存在する。

たとえ競技場と選手と決まりが存在するとしても、もしサッカー業界が存在しないならば、サッカーそれ自体が機能しない。サッカー業界はお金や性や契約を扱う必要がある。

同様に、たとえ世界と人間と目的が存在するとしても、もし性や富や生死に対する適切な認識が存在しないならば、宗教は機能しない。

3編 運動と行為と人為

 以下で、俺は運動と行為と人為を提示する。なお、下記は俺の造語である。俺は物体の運動と自由意志による運動と主体的な義務による運動を区別するべきと感じた。

以下では、俺は法を決まりと仮定する。法が何であるかは非常に難しい。一般的に、法は善悪を持つべきであると考えられ、かつその善悪は正当性を持つ必要がある。

ここでは、それを取り上げない。決まりや規則やパタンと思って欲しい。

1章 運動

認識 運動とは、物体の位置の変化である。

 運動は物理学で扱われる。そこでの運動は機械の運動に等しい。

1節 動作法

 動作法とは、(物体の)運動を定める法である。例えば、機械へのプログラム(動作法)は動作法である。物理法則(自然法則)も動作法である。

2章 行為

認識 行為とは、自由意志を持つ運動である。

 東洋文明では、動物もまた自由意志を持つ。野生動物を見ると、俺は彼らもまた自由に運動していると審判する。少なくとも、彼らの運動は機械的な運動でない。

 1節 行為法

 行為法とは、(動物の)行為を与える動物法である。例えば、犬に対する躾は行為法である。また、子供や家畜や奴隷に対する躾も行為法である。

3章 人為

認識 人為とは、主体的な義務を持つ運動である。

 または、人為とは、義務的な意志を持つ運動である。個人的には、俺は動物と人間の違いとは、自由でなく、義務が存在するかである。空を自由に飛ぶワシは義務を持たない。

 1節 人為法

 人為法とは、(人間の)人為を人間と契約する人間法である。例えば、人間が宗教的な義務や法律に沿って主体的に行為するとき、その行為は人為である。自由意志による気分的な合意でなく、義務的な意志による合意がより優先される。

 2節 人為法と人間の本質

 人為法は人間の本質を与える。なぜなら、義務に沿って運動する対象は人間のみである。もしxが人為法であるならば、xは人間の本質を与える対象である。

おまけ 陰陽一体思想

運動と行為と人為の陰陽一体 運動と行為と人為は互いを排除しない。

 俺ら人間は機械的な性質と動物的な性質と人間的な性質を持っている。俺らは3つの性質を俺らの内部で成立させている。動物的な性質と人間的な性質は互いを排除し合わない。

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