大阪大学の菊池誠は刑罰それ自体を認識できるか?

大和民族
https://www.excite.co.jp/news/article/Ncn_353113/

 俺が菊池誠を見るとき、俺は菊池は刑罰それ自体を認識できないと審判した。菊池だけでなく、大和民族の学者の大部分は刑罰それ自体を認識できないように見える。彼らは彼ら自身の人間社会(人間競技)を形成できないので、彼らは人間競技から導かれる刑罰それ自体も形成できない。

もし人間がサッカーという競技を形成できないならば、サッカーにおけるレッドカードの提出(刑罰)も形成できないだろう。同様なことが、菊池を含む大和民族の学者にも見られる。以下で、俺は菊池が刑罰を認識できないように見えることを提示する。

その後、俺は刑罰に対する俺なりの認識を提示する。なお、刑罰や罰は俺の造語である。

1章 菊池誠と刑罰

俺の審判 菊池誠は刑罰及び罰それら自体を認識できないホモ・サピエンスである。

 菊池誠は刑罰それ自体を認識できないホモ・サピエンスである。なぜなら、菊池は無宗教であり、彼は人間社会を形成する何かを持っていない。日常的にも、刑罰は宗教や文明という人間競技から導かれる。

菊池が無宗教であるということは彼は彼自身の人間競技を形成していないことである。つまり、彼は刑罰それ自体が何かをいまいち認識できていない。上記でも述べたように、もし俺らが自己の宗教や文明を持たないならば、その状態は運動競技のないサッカーの試合のようなものである。

当然、そのとき、レッドカードの提出という刑罰もまた存在しない。運動競技が存在するからこそ、刑罰も存在する。菊池は無宗教の意味を把握できないのだろう。

1節 刑罰と正当性

 加えて、菊池が無宗教であるとき、俺は菊池は刑罰の正当性を何に求めているのか疑問に思う。彼は刑罰それ自体を認識できないので、刑罰の正当性それ自体も認識できないように思える。だからこそ、彼は非キリスト教徒の大和民族が殺人罪というキリスト教的な罪の概念によって罰されていることに違和感を覚えない。

もし菊池が自己の宗教を持つならば、彼は彼自身の行為がキリスト教的な罪の概念によって罰されることに、何ら正当性を覚えないだろう。彼は無宗教であるので、日本国憲法の正当性やそこから導かれる刑罰の正当性に違和感を覚えない。

2節 菊池の脳内

 菊池の呟きを見ると、菊池は刑罰それ自体を学問の自由に対する侵害や大学の自治に対する侵害であると感じているように思える。大和民族の学者は反文明であり、刑罰それ自体を学問の自由の2節 菊池の脳内の下で拒絶してきた。彼らは刑罰の適用をナチスやヒトラーやスターリンと感じているように思える。

彼らは刑罰がない状態が自由であると感じてる。その状態は未開であり、草野球もどきのような状態である。彼らは刑罰に関する詳細な知識を持つが、彼らは刑罰それ自体を認識できない。

2章 刑罰(正当罰)

 俺の審判 刑罰(正当罰)とは、正当性を持つ罰である。

 刑罰において、重要なことは刑罰の「正当性」である。もし刑罰が正当性を持たないならば、死刑や戦争における射殺は単なる殺害行為である。当然、この正当性は自然界に存在しないので、正当性は宗教や文明に関係する。

宗教は正当性を刑罰を含む物事に与える。だから、宗教は正当性を通して、刑罰を定める。つまり、宗教が異なるとき、正当性も異なるので、刑罰も異なる。

卓球の世界では、サッカーにおける罰は正当性を持たないので、サッカーにおけるレッドカードは卓球の世界における刑罰でない。同様に、東洋文明における西洋的な罰は東洋文明において正当性を持たないので、日本国憲法における刑罰は刑罰足り得ない。

1節 刑罰と宗教及び文明

俺の認識 宗教と文明が刑罰の正当性を刑罰に与える。

 宗教と文明が刑罰の正当性を刑罰に与える。だから、宗教や文明なしに、刑罰が存在しない。もし宗教が存在しないのに、殺人行為が生じたならば、それは刑罰でない。

キリスト教では、刑罰の正当性は罪である。罪はこの世界の創造主(の意志)によってさらに正当化される。東洋文明では、刑罰の正当性は礼である。礼は先祖の意志(言い換えると歴史)によってさらに正当化される。

菊池は無宗教であるらしいので、彼は刑罰の正当性を刑罰に与えられない。つまり、彼が他者に実行する刑罰の全ては刑罰でなく、単なる暴力や殺害行為である。菊池は自己の宗教や文明を持っていないので、正当性を刑罰に与えられない。つまり、彼は刑罰それ自体を持っていない。

3章 罰

 罰が何であるかは俺にとって難しい。もし罰が損害や罪や礼に関係するならば、罰それ自体も宗教や文明の影響下に存在するように感じる。

菊池は無宗教であるので、彼は罰それ自体も認識できない。

1節 罰(違反系罰)

俺の認識 罰とは、正当性に対する違反(への制裁)である。

 東洋文明では、礼が善悪の正当性を与える。西洋文明では、罪が善悪の正当性を与える。正当性に反する、または正当性から導かれる善悪に反する行為への制裁である。

西洋では、殺人行為は悪いので、その行為は悪である。もしある対象がその罪な行為を犯すならば、その対象は刑罰の対象になる。

東洋文明では、無礼な行為は悪いので、その行為は悪である。もしある対象がその無礼な行為を犯すならば、その対象は刑罰の対象になる。

2節 罰(排除系罰)

俺の認識 罰とは、人間が自己への損害の原因を排除する行為である。

 損害を与えた対象を損害対象と便宜的に置く。「人間が自己への損害の原因を排除する行為」は正当防衛や戦争で行われる。また、損害対象に厳しい罰を与えるとき、人々は将来的における罰を予防できると感じる。

3節 罰(埋め合わせ系罰)

俺の認識 罰とは、人間が自己への損害を損害を与えた対象への損害で埋め合わせる行為である。

 後者、「自己への損害を損害を与えた対象への損害で埋め合わせる行為」は相互的な罰であり、目には目の精神である。「目には目を」、「損害には損害を」の精神である。

一方、損害対象が金銭を被害者に与える場合、その行為は損害という負(マイナス)に対する金銭という正(プラス)の埋め合わせ、または相殺((+)+(-)=0)に近い。それが罰になり得るのは、損害対象から見れば、金銭を失う状態が損害、つまり罰になってる(と解釈される)。

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