自己の死〜個人的自己死(対象的自己死)と他者的自己死(関係的自己死)〜

人工物
https://en.wikipedia.org/wiki/Death
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 以下で、俺は2種類の自己の死を提示する。自己の死には、2種類存在する。一番目には、個人的自己死である。二番目には、他者的自己死である。なお、自己の死を便宜的に自己死と置く。

俺らが自己の死を思考する時、俺らは2種類の感情を抱くだろう。一番目には、俺らは死んだら終わりと感じている。二番目には、俺らは俺らの子供や配偶者や子孫の人種的、民族的な繁栄を想像する。

俺らが人々を観察する時、自己の死に対する2種類の考えが存在していることに気づく。以下で、俺らはそれを見てみよう。

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1章 自己死

 共通認識 自己死とは、自己が対象の生(状態)から対象の死(状態)に変化する運動である。である。

 死(動詞)とは、ある対象が対象の生(状態)から対象の死(状態)に変化する運動である。死(状態)とは、対象が対象の生(状態)を持たない状態である。

自己の死の自己が何であるかは宗教や文明によって異なる。なお、この宗教では、自己とは自己の車体や肉体でなく、ヌシそれ自体である。

また、他者が死ぬことと自分が死ぬことは異なる。俺らは自己の死(正確には、生から死への変化)を経験したことがない。それに対して、俺らは他者の死を経験してきたので、俺らは他者の死を知っている。誰も自己の死を知らないし、自己が死んだらどうなるのかわからない。

2章 個人的自己死

 共通認識 個人的自己死(対象的自己死)とは、自己の死を他者を仮定せずに捉える自己死である。

 俺が死んでしまったとき、俺は俺の視点を失う。俺は死後もなんとなく日本列島や地球上にいるようなきがするが、その想像はおそらく正確でない。なぜなら、俺の脳が破壊されて、俺の視野や意識が失われるとき、俺の視界の位置は地球上に存在しない。

光や音を捉える感覚器官それ自体が破壊されているので、俺らは死んだ後、光や音を捉える主体を持たない。だから、死後の日本列島や地球上の視点はそもそも存在しない。復活して、目覚めたら、別の宇宙にいてもおかしくない。

また、たとえ俺が死ぬとしても、俺はなんとなく記憶を維持して、日本語を話しているような気分になる。けれども、俺の脳が破壊された後、俺はすべての記憶と言語を失うので、その推論は正確でない。上記の死生観は科学、特に理論物理的、または機械の持つ死生観であるように感じる。

3章 他者的自己死

 共通認識 他者的自己死(関係的自己死)とは、自己の死を他者の死に経験的に対応させる自己死である。

 対応させるは「重ねわせる」でも良いかも。日常的には、俺は自己の死を次のように考える。たとえ俺が死ぬとしても、俺はなんとなく日本列島や地球にいるうに感じる。だから、俺らは俺らの家族や子孫、友人や日本国や東洋文明の将来を考えつつ、お墓や埋葬について考える。

俺は自己の死の後の他者の視点を俺の経験から考慮する。だからこそ、俺は上記のような死生観を持っている。俺らがこの種の死生観を採用する時、俺らは人間社会をうまく回せてきたと感じてきた。だからこそ、俺らはこの種の死生観を本能的に採用してきた。

しかし、純粋に物理的には、この種の死生観は科学的でない。なぜなら、科学的には、死んだら終わりである。つまり、上記の死生観は機械的でなく、人工物である。

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