歴史(history)

歴史
https://ja.wikipedia.org/wiki/司馬遷
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 俺が大和民族の学者や歴史オタクを見る時、俺は彼らは歴史それ自体を認識できないように見える。実際、彼らは単語や現在の状態、そして未来における危険性に対する歴史的な応答能力を持っていないように見える。けれども、彼らは豊富で正確な知識を持っている。

歴史とは何であるだろうか?以下で、俺は歴史に対する俺の認識を提示しよう。当然、人種や民族、宗教や文明が異なるとき、歴史それ自体に対する認識もまた異なるだろう。つまり、西洋文明における歴史は東洋文明における歴史と異なる。

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1章 歴史

 共通認識 歴史とは、「自己の文明に対する人間の実際の過去の存在及び状態及び運動」に関する記録と「(省略)」に関する審判と「(省略)」に関する判断の組みである。

 記録と審判と判断の関係が、記録及び審判及び判断であるのか、または記録と審判と判断の組みであるのかはわからなかった。俺は組みを便宜的に採用した。なぜなら、組みのとき、どれかが一つかけると、成立しないように感じた。

日常的には、歴史とは、競技者と審判者と判断者の組みである。歴史が成立するためには、競技者だけでは不足であり、競技者に対する審判と審判に対する判断者が必要である。その時、歴史が一つの競技として機能する。

審判や判断が欠如する時、歴史が単なる競技者の実況中継になる。当然、競技者が競技するためには、お金や約束に対する概念、言い換えると宗教も必要になってくる。

2章 歴史の具体例

1節 東洋史

 東洋史では、司馬遷の史記のような歴史が重視されるように見える。俺の印象によると、史記には、善悪やその根拠や根拠の正当性がない。

だから、史記は神話と競技者の実況に近いように感じる。当然、当時の基準では、その書物は素晴らしい価値を持ち、彼は天才的であっただろう。しかし、審判者や判断者の存在が仮定されていない。

善悪の判断が存在しないとは、例えば、アメリカ大陸の多様性が素晴らしいという歴史が描かれることである。モンゴロイド人種としては、俺はこの種の歴史観を拒絶する必要がある。なぜなら、もしその種の歴史が正しいと認められるならば、俺らはまた虐殺や絶滅に危機に遭遇するかもしれない。

 実際、大和民族は競技者の過去の行為に関する豊富で詳細な知識を持っている。けれども、彼らは白人の真似をして、多様性を賛美する。たとえ白人が多様性は素晴らしいという歴史を現在進行形で書いているのに、彼らはそれを批判しないし、その種の歴史が描かれても傍観している。

彼らが現在進行形の歴史に関して、善な応答を実行できない時、俺は彼らは歴史それ自体を認識できないように見える。なぜなら、彼らは自己の善悪の判断を下せず、また、レッドカードを出して、審判できない。競技者に対する実況や記録のみでは不十分である。

2節 地中海史

 ヘロドトスは歴史の父らしい。けれども、俺は彼もまた競技者の実況中継や観察日記に近いように思える。俺の印象によると、その歴史もは、善悪やその根拠や根拠の正当性がない。

だから、ヘロドトスの歴史は神話と競技者の実況に近いように感じる。当然、当時の基準では、その書物は素晴らしい価値を持ち、彼は天才的であっただろう。しかし、審判者や判断者の存在が仮定されていない。

 

 

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