以下で、俺は本質(essence)を提示する。
背景
ホモ・サピエンスの本質
現在、ネアンデルタールやデニソワ、未知のアフリカ人種が発見されている。そして、ホモ・サピエンスの先祖は彼らと交雑したはずである。このとき、俺はホモ・サピエンスとは何であるのかと疑問に思う。
ネアンデルタールもデニソワもホモ・サピエンスと同じ形を持ち、同じ要素(素材)を持っていた。そして、おそらく、彼らもまた二足歩行を実行していたはずである。では、ホモ・サピエンスとネアンデルタールとデニソワは何が異なるのだろうか?
俺がこの疑問に回答するとき、俺はホモ・サピエンスの本質を考える必要がある。時に、俺が殺ホモ・サピエンス行為に対する法律を適用する時、俺はホモ・サピエンスが何であるのかをきちんと認識する必要がある。
本質
本質
俺の認識 対象の本質とは、対象それ自体に一対一に唯一に対応する対象の存在や状態や運動である。
印象的な例えでは、対象を棚と仮定して、対象の性質(存在や状態や運動)を棚の引き出しと仮定する。そのとき、対象の本質とは、棚に一対一に唯一に対応する引き出しである。
つまり、もし俺らがある引き出しを指定するならば、その指定に沿って、ある対象が唯一に召喚される。それが対象の本質である。注意点として、対象の本質は対象それ自体でない。この宗教では、俺らは対象それ自体を把握する能力を持っていると必ずしも仮定しない。
ホモ・サピエンスの本質(具体例)
形
俺の認識 ホモ・サピエンスの本質はその形でない。
例えば、ホモ・サピエンスの形はホモ・サピエンスの本質でない。なぜなら、たとえ俺らがホモ・サピエンスの形を指定するとしても、俺らはホモ・サピエンスそれ自体を召喚できない。ホモ・サピエンスの形をもつロボットや彫刻、そして人形が召喚される。
つまり、ホモ・サピエンスの形はホモ・サピエンスの本質でない。もしホモ・サピエンスの形がホモ・サピエンスの本質であるならば、俺が人型の彫刻を破壊するとき、その行為は殺ホモ・サピエンス行為になる。
要素(素材)
俺の認識 ホモ・サピエンスの本質はその要素(素材)でない。
今、俺はホモ・サピエンスの要素(素材)を皮及び肉及び骨と仮定する。もし俺がホモ・サピエンスの形を仮定した後に、俺がホモ・サピエンスの皮及び肉(タンパク質?)、そして骨を指定するならば、俺はホモ・サピエンスを指定することができるように感じる。
この時、ホモ・サピエンスの本質はその形及びその要素(素材)である。当然、たとえある主体がホモ・サピエンスの要素(素材)を持つとしても、もしその主体がホモ・サピエンスの形を持たないならば、その主体はホモ・サピエンスでない。
ただし、俺はホモ・サピエンスの皮とは何であるのか、ホモ・サピエンスの骨とは何であるのか、そしてホモ・サピエンスの肉とは何であるのかを指定する必要がある。なぜなら、俺は動物の皮及び骨、そして肉とホモ・サピエンスのそれらの違いをうまく把握することができない。
例えば、機械の臓器はその素材が異なるが、どうなるのだろうか?また、もしホモ・サピエンスの要素が細胞であるならば、その時、一つの細胞もホモ・サピエンスになる。核ゲノムもホモ・サピエンスになるだろう。けれども、たとえ俺が細胞や核ゲノムを破壊するとしても、その行為は殺ホモ・サピエンスにならないように感じる。
また、胎児はホモ・サピエンスの形と要素を持つ。しかし、たとえ俺が胎児を中絶させるとしても、その行為は殺人行為にはならない(殺ホモ・サピエンス行為にはなるかもしれない)。なぜなら、人間の本質はホモ・サピエンスの形や要素には関係ない。
究極的には、ホモ・サピエンスの要素は最小単位(素粒子)である。しかし、もしホモ・サピエンスの本質が素粒子であるならば、俺が素粒子を破壊するとき、その行為は殺ホモ・サピエンス行為になる。
自由意志
俺の認識 ホモ・サピエンスの本質は自由意志でない。
俺が動物を観察する時、俺は動物の運動は機械的でなく、自由的であるように見える。もしホモ・サピエンスの本質が自由意志であるならば、俺が動物を破壊するとき、その行為は殺ホモ・サピエンスになる。
また、デニソワやネアンデルタールも自由意志を持っていただろう。つまり、俺はホモ・サピエンスを自由意志で指定することができない。