俺は関西人でないので、同和が何かがわからない。だから、ほとんどの日本人は同和問題は関西特有の問題であるので、部外者はその問題に口を出すべきでないと感じている。けれども、俺が同和問題やその問題に対する山口貴士の振る舞いを見るとき、俺は大和民族の弁護士の無責任さに驚かされる。
以下では、俺は日本人の弁護士に見られる彼らの行為の問題点を提示する。その問題点とは、彼らは人間の統治それ自体を一切考えていないことである。にも関わらず、問題が生じると、彼らはシステムの内部における要素の責任にしようとする。
1章 山口貴士の問題〜統治に対する無関心さ〜
山口貴士の問題:山口貴士は法の意味を把握していないので、彼は統治に無関心であってきた。
正確には、山口貴士は東洋文明における法の意味を全く把握していない。その結果、彼は法律的な真理を主張することに熱中していて、彼はサッカーの試合が実際に統治されているかに無関心であってきた。彼の様子はまるで中世における神学者に等しく、神学者もまた現実世界における統治に無関心であってきた。
同和における糾弾会の問題点とは、警察や裁判、法、その他の統治機構による統治行為の機能不全である。まともな人間が同和の糾弾会を見て、関西は統治に失敗した未開地域であると認識する。けれども、山口は同和の人間を法律的な観点から正しく批判しようとする。この種の行為は悪い。
なぜなら、本来であれば、統治状態が失われた理由を作った警察や軍隊や裁判、そしてその他の統治関係者(法律関係者)に問題が存在する。あの状態になったのは、運動競技を形成する人間とそれを実際に運用する人間の共同責任である。当然、糾弾して他人を追い込んだ人間にも責任が存在するが、あのような状態を作った統治者およびその関係者に一番の責任が存在する。
2章 真理を主張すれば責任を負わなくて良い
山口貴士の問題:山口貴士は真理を主張すれば、彼は彼の行為の責任を負わなくて良いと考えているように見える。
この種の性質は学者や宗教家にも見られる。人間は不安を恐れて、安心感を求める。だから、一部の人間は宗教や学問、そして法律に安心感を求める。その結果、彼らは宗教的に正しいことを言っているので、責任を負わなくて良い。彼らは学問的に、法律的に正しいことを言っているので、責任を負わなくて良いと考えているように見える。
だからこそ、同和による糾弾会が放置されてきた。人権だから、差別だから、仕方がないと言って、彼らは目の前の統治の機能不全な状態をいつまでも放置してきた。日本人の弁護士を見ると、彼らは責任を負いたくないので、法律を引用して、「あの時は仕方がなかった」という “雰囲気” に持っていこうとする。
上記で述べた統治に無関心と不安の回避のための法律的真理への依存が合わさると、彼らは現実世界における統治に一切無関心になる。その結果、恫喝や脅迫、ゆすりたかり行為が生じるとしても、彼はぼーっと見ているか、「あの時は仕方がなかった」という “雰囲気” に持っていこうとする。
3章 無責任な実際の発言

下記のツバメ次郎にも問題が存在するのは事実である。しかし、山口はツバメ次郎の発言を他人事のように批判するのでなく、彼は彼自身にも統治関係者としての責任があることを自覚すべきである。彼はまるで自然現象のように、「糾弾会をやれば、〜その関係者との対立を恐れるようになるのではないでしょうか?」と述べている。

俺が上記の山口のつぶやきを見た後、俺は強烈な違和感を覚えた。彼はまるで他人事のように同和による球団を批判している。彼の行為は戦後のドイツ人がナチスや人種差別主義者を他人事のように批判することに似ている。けれども、同和やナチスの原因は法律関係者やドイツ人の中に存在する。
大和民族の弁護士は政府による統治を白人由来の法律で邪魔する。その結果、同和のような統治不能状態が生じる。けれども、彼らはその妨害行為の責任を一切とらずに、彼らは他人事のように同和やナチスを批判する。この状態は非常に悪い。21世紀の現在でも、日本人の弁護士は統治の邪魔を繰り返して、日本列島の自然な先住民である大和民族や縄文系民族を危険に晒してきた。