医師の井上秀太郎は天才か?〜大和民族(日本人)を含む東洋人の試験天才?に思うこと〜

大和民族
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 上記は井上本人の呟きでない。だから、俺は彼の試験の点数に関して何も言うつもりはない。しかし、俺は上記の呟きを見るとき、特に天才という単語を見るとき、俺は強烈な違和感を覚える。大和民族の “天才” の大部分は天才でないように見える。

俺が大和民族が試験の点数で天才伝説を作っているとき、俺は彼らの東南アジア的な幼稚性と田舎っぽさに非常に驚かされる。以下では、俺は日本人と試験に関する違和感を提示する。なお、俺は井上秀太郎自身に関して何も批判しない。

俺が違和感を覚えるのは日本人に過去の試験に関して話させるときである。上記の呟きを見ると、俺は笑ってしまう。あんなに難しい試験を簡単に通過できる人々がなぜここまで幼稚な話題に熱中できるのだろうかと感じる。

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井上秀太郎は天才か?

 俺の認識:井上秀太郎は現時点では天才でない。

 俺の考える天才はニュートンやアインシュタインのような人物である。あるいは、ソサエティでは、ブッタやキリスト、チンギス・ハンやリンカーンなどである。天才はどちらかというと、人類史に残るような偉人である。

俺の認識では、井上秀太郎は現時点では偉人でないので、天才でないように見える。俺の印象では、彼の頭脳は記憶能力と情報処理能力である。それは東洋人の知的能力において観察される。

試験できることは天才でない

 大和民族のソサエティでは、試験できる人間が秀才や天才と呼ばれてきた。しかし、その試験の題材を提供してきた人間(過去の数学者や古代ギリシア人)がどちらかというと天才である。白人様がお造りになった問題を解くことは天才でない。

外部から見ると、大和民族は白人様が作った問題を正確に解いて、彼らの天才性?を競い合っている。この種の行為は白人の奴隷的な行為に見える。もし黒人が白人が考えた題材を必死にときあい、白人の言う通りに解いた黒人が天才と呼ばれていたならば、人々はその状態を少し奴隷的であると感じるだろう。

中国人の天才さ?

 俺が井上を見るとき、俺は北米における中国人の天才性を思い浮かべる。彼らの試験能力は白人以上であり、非常に難しい問題で満点をとるように見える。しかし、誰も彼らを天才と呼ばなし、実際モンゴロイド人はキモオタと呼ばれて、馬鹿にされている。

東洋人の試験天才は自己のソサエティを形成できるか?

 俺の認識:東洋人の自称・他称天才は自己のソサエティを形成できない。そのため、彼らの天才性には実態が存在しないように見える。

 東洋人の自称・他称天才は自己のソサエティを形成できない。そのため、彼らの天才性には実態が存在しないように見える。これは上記の井上もそうであり、試験に通過したことが彼の(他称天才性)を暗示している。

基本的に、東洋人の天才性は白人によって褒められた、与えられた課題を解いた、白人に認められたことに依存している。これはノーベル賞やフィールズ賞も同様であり、それらの賞の意味は「白人に認められた=だから天才=だから国際」である。

東洋人の天才の大部分は自己の何か、自己のソサエティを全く形成できない。彼らの天才性は白人に褒められるための天才性であり、自己の文明を形成して、白人と対峙するような天才性でない。そのため、彼らの天才性は身内の中で互いに褒めあっていい気分になって終わるキャバクラ的天才性や気功の達人的天才性になっている。

カタカナ用語

 現在、日本国では不要なカタカナ用語が蔓延している。例えば、ウーブン・シティやハーフやアジャイルなどである。この種の状態を見て、井上のような天才はこの状態を改善して、きちんとした日本語ソサエティを形成することができない。

たとえ試験天才の数が増加するとしても、日本語におけるカタカナ用語の蔓延速度が減速しない。俺が試験天才の大部分が自己の言語である日本語のカタカナ用語化に無関心であるのを見るとき、俺は彼らは本当に天才なのかと疑問に思う。彼らは何も違和感を覚えていないように見える。

個人的には、俺は試験できても、カタカナ用語すら日本語に直せないならば、その試験能力は不要であると感じる。東洋人の天才性は自己の言語(言語はソサエティ)を発達させる能力でないように見える。だからこそ、中国語の文法はいつまでも曖昧である。

景観の醜さ

 日本列島の景観は非常に醜い。けれども、日本人の試験天才はこの状態を醜いと認識していない。加えて、彼らはその醜さを悪いと判断していない。

東大生の大部分も学者も政治家も日本国の景観の醜さ、街並みの自己認識の醜さに何も感じていない。日本国の街並みはスラム街と同じである。試験天才の知的能力はこの景観スラム街をなんとなかすることができないように見える。

個人的には、俺は試験できても、景観を改善できないならば、その試験能力は不要であると感じる。彼らには、自己のソサエティ(景観)を彼ら自身で作るという発想がないように見える。個人的には、俺はノーベル賞やフィールズ賞よりも、東洋建築を再興、新たに創造する日本人(東洋人)の方が天才であると感じた。

民主主義?

 現在の国家制度は国民国家であり、その国家システムの統治制度は民主制度である。しかし、この制度は西洋由来であり、東洋由来でない。日本人の試験天才は、東洋文明のおける自己の統治制度や国家制度を創造しようという発想すらないように見える。

彼らをみると、自己のソサエティを形成しようと意志も発想もない。当然、それでも良いが、その場合、彼らは「天才」でなく、非常に優秀な労働者である。俺の印象では、大和民族の天才はソサエティや統治それ自体を認識できていないように見える。

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