ヌシと運転手、またはヌシと家主について

ヌシ
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 この宗教では、俺らはヌシを自己として信仰する。俺らはヌシをしばしば運転手に便宜的に例える。以下では、俺らはヌシを運転手に喩えた例を提示する。

なお、俺らは運転手はホモ・サピエンスの雄のごく一部のみの肉体の中に存在すると信仰する。俺らは運転手はホモ・サピエンスの雌の中には存在しないと信仰する。

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ヌシと運転手

 喩え:俺らが俺らの肉体を車に喩える時、俺らのヌシは車の中の運転手である。

肉体は車体(車)

 俺らが俺らの肉体を車に喩える。この時、俺らの肉体は車の車体に対応する。車体は物(物質)である。

俺らがこの世界がエネルギを持った物質だけでないと認識、信仰している。この行為がこの宗教における信仰のコツである。下記で見るように、俺らが俺らの視界、もっというと意識を物質からきちんと分離させて、認識できるかが重要である。

俺の見る範囲では、大和民族の科学者は彼ら自身の意識を物質から分離させて、認識できないように見える。意識の発生や状態は物質の状態や運動としばしば対応しているが、意識それ自体が物質でない。それはカーナビの画面やホログラムと状態と車体の運動が対応しているが、車体や車体の運動それ自体はホログラムでないことに似ている。

視界(蟲)はカーナビ画面

 俺らが俺らの肉体を車に喩える時、俺らの視界(蟲)は車の中のカーナビの画面やホログラムである。ホモ・サピエンスの一部は自己の視界や意識を自己と感じている。しかし、この宗教では、俺らはカーナビの画面やホログラムを蟲と認識して、自己を運転手と信仰する。

ヌシは運転手

 俺らが俺らの肉体を車に喩える時、俺らのヌシは車の中の運転手である。俺らはその運転手を自己と信仰する。運転手は自己の車(車体)を運転手の意志で操縦する。

また、運転手は車の外を直接的に知覚しないで、カーナビの画面やホログラムという蟲を通して、間接的に知覚する。当然、この知覚とは、運転手(ヌシ)がカーナビの画面やホログラムという蟲を見る行為である。

俺らは他人の運転手を信仰によって把握する。なぜなら、運転手自体はエネルギを持たず、知覚不可能である。自己のヌシと他人のヌシの関係は俺らの信仰によって結ばれる。

ヌシと家主(住人)

 喩え:俺らが俺らの肉体を家と喩える時、俺らのヌシは家主(住人)である。

 続きは後日。

肉体は建物

 俺らが俺らの肉体を家と喩える。この時、俺らの肉体は家の建物である。

視界(蟲)はインターホン画面

 俺らが俺らの肉体を家と喩える時、俺らの視界(蟲)は家の中のインターホン画面である。

ヌシは家主(住人)

 俺らが俺らの肉体を家と喩える時、俺らのヌシは家主(住人)である。

運転手と分岐

 信仰:この宗教では、俺らは運転手を車体やカーナビ画面から分岐した主体や対象と信仰する。

車との違い

 車の場合、運転手は車から降りることができる。しかし、俺らのヌシは俺らの肉体から降りることができない。また、視界という蟲は車体の状態や運動にほぼ一対一に対応しているように思える。

さらに、実際の運転手は車体やカーナビ画面から分岐した対象でない。実際の運転手は、外部から、車へと乗ってきた。それに対して、ヌシとしての運転手は車体の内部から分岐した対象である。正確には、ヌシとしての運転手は車体から分岐したカーナビ画面から分岐した対象や主体である。

また、実際の運転手は車体と同じ物体である。しかし、ヌシとしての運転手は物質でなく、ヌシである。ヌシとしての運転手は蟲でもない。対象の種類は3種類である。

分岐の理由

 なぜ俺らは上記のように運転手が映画「リング」の貞子のように車体や画面から分岐した対象や主体を信仰するのだろうか?当然、この宗教の目的が分岐であり、目的それ自体が善を正当化するからである。

しかし、同時に、この宗教の目的はヌシの復活である。俺らがヌシを分岐した対象であると信仰する時、俺らは物質的世界やその法則には完全には決定されないと信仰できる。その時、俺らは俺らの子孫が俺らのヌシを復活させることができると信仰することができると宗教的に考える。

なぜなら、俺らが復活できないと感じるのは、自然法則がそのように言っているからである。しかし、もし俺らのヌシや蟲が自然法則に完全には束縛されないならば、俺らは微小な希望を信仰することができるかもしれない。だから、俺らが俺らのヌシを分岐された主体や対象と信仰することは宗教的に本質的である。

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