大栗博司の探求する精神(職業としての基礎科学)とソサエティ対テクノロジー

大和民族
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 俺は大栗博司の探求する精神(職業としての基礎科学)を読んでいない。しかし、俺は大栗博司を含む大和民族の科学者や数学者に関する違和感を提示する。俺はこの書籍の感想(電飛)と現代の記事(電飛)、そして幻冬社の記事(電飛)を読んだ。

俺の霊感では、大栗博司は(科学者にも問題があるが)基礎科学の重要性を訴えている。基礎科学はすぐには役に立たないが、歴史を考慮すれば、人類の発展に貢献する。だから、地球上における国民が基礎科学に投資することは非常に有益である。

俺の霊感では、彼はこのようなことを強く主張したい。また、彼は東日本大震災やコロナウイルスの猛威に関して “社会” と基礎科学との関係も考えるようになった。俺は彼の書籍を読んでいないが、このようなことが書かれているのでないかと(読む前に)憶測している。

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人類と社会〜俺らの実現したいソサエティはどこ?〜

 俺の違和感:大栗博司を含む大和民族は自己の実現したいソサエティ(社会)を持っていない。

 大栗博司は科学と社会の関係や人類への科学の有用性を主張する。しかし、俺は彼はどのような社会に所属しているのかをいまいち把握できない。彼は社会について考えるが、彼は社会(ソサエティ)という運動競技それ自体をうまく認識していない。

所属社会なき大栗は根無し草か

 例えば、西洋文明では、サッカーという運動競技が競技されてきた。東洋文明では、卓球という運動競技が競技されてきた。運動競技が異なる時、何が善か悪か(レッドカード)や性規範、平等や公平、富の規範も異なる。

大栗は自己のソサエティを認識できず、かつ自分がどこのソサエティに所属しているかすら認識していない。たとえ俺が大栗に「君はキリスト教・ユダヤ教のソサエティに所属して競技しているのか、儒教の東洋文明に所属して競技しているのか」と質問するとしても、大栗博司は俺の質問に適切に回答できないだろう。このような未開の状態で、大栗は科学や社会との関係、人類への科学の貢献に言及してきた。

もし何の運動を競技してきたかを知らない運動選手が運動競技についてなんとなく雰囲気で語るならば、その時、人々は彼の発言に強烈な違和感を覚えるだろう。これは大栗だけでなく、大和民族の科学者や数学者は東日本大震災やコロナを持ち出して、科学と社会を語り、科学の人類への貢献を高らかに賛美する。しかし、俺は彼らはどんな社会(人間競技)に所属していて、どんな社会を実現させたいのかすらわからない。

科学とは?〜競技場の建設〜

 一般人にとって、人間社会における科学的な営みとは、運動競技における競技場(テクノロジーの産物)に使用されている塗料(科学や数学)に近い。大栗博司を含む大和民族の科学者は「科学は人類に貢献してきた」と主張するが、その主張は科学や数学、そしてテクノロジーは運動競技に非依存的であるからである。卓球という社会における競技場もサッカーという社会における競技場にも同じテクノロジー、同じ科学と同じ数学が使用されている。

しかし、競技場の建設の必要性はそれぞれに異なる社会(ソサエティ)が存在するからである。もし卓球という運動競技やサッカーという運動競技が存在しなかったならば、その時、競技場というテクノロジーの産物は生まれない。当然、競技場に使用される数学も科学も使用されない。たとえ科学や数学が任意の競技場に依存せずに、全ての運動競技場で役に立つとしても。

大栗博司を含む大和民族の科学者が科学は人種や宗教や国家や文明に関係なく、全ての人々に役立つと無邪気に主張してきた。俺の印象では、その理由は、彼らは自己の実現したいソサエティを持たず、何の運動競技も競技してこなかったからである。科学はアメリカ先住民にもアボリジニにもネグロイド人にも平等に役に立つが、彼らは自己の実現したいソサエティを白人によって完全に破壊されただろう。

探求する精神〜分析行為は高尚か?〜

 俺の印象:たとえ科学者が自然界という既知の対象を分析するとしても、自己の社会や文明は形成されない。

 たとえ科学者が(創造主によって創造された)自然界という既知の対象を分析するとしても、自己の社会や文明は(日常的な意味で)自動的には形成されない。当然、学問とは、既存の対象を分析する営みである。だから、大栗が社会形成能力を持っていないても不思議でない。

社会を形成する能力がない

 大栗博司は自然界を明らかにする重要性を強調して、何かを探求することの高尚さに言及する。けれども、彼は人間社会という運動競技それ自体を形成する能力を持っていない。彼らの知性は、他人が人間競技を一生懸命競技、管理や統治、形成してきたことに依存している。

自然界の創造主が自然界を創造してくれるからこそ、科学者は自然界をきちんと分析することができる。科学者の知性など、創造主による創造行為と何かの競技行為、管理や統治行為に依存した状態でしかない。もし創造主が自然界をきちんと創造してくれないならば、科学者は自然界をきちんと分析できず、知性とやらを発揮できないだろう。

大栗博司の社会形成能力の無さとは、カタカナ用語を廃止することや日本国の醜い景観をなんとかすること、そして大学における(宗教的な性規範の欠如による)オタサーの姫の問題にも現れている。彼は自然界を分析する高い能力を持っているが、オタサーの姫を管理能力を持っていない。加えて、彼はこの種の女神様を排除するシステムを組むことができない。

 さらに、彼はアメリカ大陸の多様性が賛美されるような社会すら修正できないでいる。個人的には、たとえ大栗が自然界の全てを解き明かすとしても、もし俺らが自己の人間社会(それはキリスト教やユダヤ教でない)を実現できないならば、自然界を分析することには、果たして意味があるのだろうかと疑問に思う。

コロナウイルスとソサエティ

 左のような発言は強烈な違和感を俺に与える。大栗博司の主張する “人類” には、ネグロイド人種やアメリカ先住民は含まれるのかと疑問に思う。mRNAワクチンはテクノロジーの産物であるが、俺はそのテクノロジーを冷めた目で見てしまう。

現在、コロナウイルスに関して、モンゴロイド人種はネグロイド人種や欧州小人種によって暴力を振るわれてきた。けれども、俺の知る範囲では、大栗はこの種の暴力に無関心であってきた。大栗だけでなく、大和民族の学者の大部分はたとえモンゴロイド人種が人種的な暴力に晒されるとしても、彼らはその事実と向き合おうとしない。知らんぷりしている。

たとえテクノロジーがコロナウイルスの問題を解決するとしても、俺らモンゴロイド人種はソサエティ的な問題を解決できないので、俺らは白人やネグロイド人に殴られ続ける。アメリカ大陸におけるモンゴロイド人の社会的な地位は低いままである。モンゴロイド人種への人種的な暴力はテクノロジーの問題でなく、ソサエティの問題である。

 自分たちの子供が学校で殴られていじめられているのに、俺らモンゴロイド人種はその現実から逃避して、テクノロジーを無邪気に賛美することができない。大栗博司はコロナウイルスに関して科学と社会の関係を考えているらしい。しかし、コロナウイルスにおけるモンゴロイド人種に対する人種的な暴力は彼の主張する社会には含まれていないように思える。

テクノロジーがソサエティを形成しているのか?

 俺の印象:ソサエティがテクノロジーや人間社会における営みとして科学や数学を導いている。

 ソサエティがテクノロジーや人間社会における営みとして科学や数学を導いている。俺が大栗博司を含む大和民族の科学者や数学者の一部の発言を見るとき、彼らはテクノロジーがソサエティを形成しているように感じているように見える。けれども、俺は彼らと異なる考えを持っていて、俺はソサエティがテクノロジーを作り上げていると審判する。

競技場のテクノロジーはサッカーそれ自体を作るか?

 例えば、日常的には、サッカーの競技場はサッカーそれ自体を形成していない。競技場はテクノロジーの産物であり、サッカーはソサエティそれ自体である。競技場に使用されている科学や数学がサッカーそれ自体を形成していない。

サッカーを競技するためには、ハンド行為が悪である善悪(レッドカード)や刑罰、お金のやり取り(富の規範)、そして契約の概念や性規範が必要である。日常的な意味では、たとえ俺らが自然界の全てを明らかにするとしても、俺らは善悪(レッドカード)を自然界の中に発見することができない。

自然な流れでは、自然界の創造主が自然界を創造して、人間が進化論によって形成される。その後、人間は生活形態やソサエティ(サッカーのような運動競技)を自然界の上に創造する。その結果として、分析者という職業や人々が登場して、ソサエティ(運動競技)の中から自然界を分析する。

 人間は分析した結果を応用して、競技場などのテクノロジーの産物を作り上げる。当然、その競技場には、科学や数学が使用されている。けれども、競技場というそのテクノロジーや科学や数学それ自体がサッカーという運動競技を形成している訳でないように見える(日常的な俺の感覚では)。