中国共産党が学問の自由を認めないことは悪であるか?〜かなやたなは(sousanusi)と掛谷英紀(hkakeya)〜

東洋文明
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【北京共同】中国共産党はこのほど大学の研究や教育の場で党の社会主義思想や歴史観を徹底し、教員や学生の思想監視を強化する規則を通知した。一党支配の下でこれまでも制約を受けていた「学問の自由」は監視強化により完全に否定された形だ。

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 中国共産党は学問の自由を否定して、学問の自由を認めないという決定を下した、この決定に対して、白人崇拝者の大和民族はヒステリを発して、憤っている。しかし、中国共産党の決定は本当に愚かな決定であるのだろうか?

俺は中国共産党の決定や上記のかなやたなは(sousanusi)の意見に賛成であり、俺は学問の自由を必要としない。以下では、俺はなぜ学問の自由が不要であるかを提示する。

大和民族は自己の宗教や善悪を持たないので、彼らは白人の意見=善、白人の意見に反する意見=悪と何となくノリや雰囲気で感じているように見える。しかし、俺らが白人崇拝をやめて、学問が本来何であるかを考える時、俺らは中国共産党の決定の意味を感覚的に把握することができる。

社会学は必要か不要か〜胡散臭い、役に立たない、学問でない〜
 電網世界では、社会学は不要と認識されてきた。社会学者は社会性のない異常者と認識されてきた。それだけでなく、社会学は学問と認識されず、社会学者は学者の水準に達していないと審判される。以下では、俺は社会学は必要かを提示する。結論から言って、俺も社会学は不要であると審判した。公的な資金は社会学に投入されるべきでない。加えて、法律による社会学の保護は不要である。この問題に関して、俺らは社会学それ自体の問題と(大和民族の)社会学者という動物の問題を提示してみよう。社会学は必要か不要か 俺の審判:社会学者が社会それ自体を分析する必要性はないので、社会学それ自体が不要である。 社会学者が社会それ自体を分析する必要性はないので、社会学それ自体が不要である。俺らがサッカーの研究者やAV動画(官能動画)の研究者やiphoneの研究者、そして宗教の研究者を考える時、俺らは社会学の不要性を感覚的に把握することができる。まず、俺らは学問とは何であるかについて考えてみよう。学問と社会学 学問(行為)とは、対象を分析する行為である。社会学とは、社会(対...
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なぜ欧州人は学問の自由を重視するか?

 理由:欧州人は自己の社会を彼ら自身で形成できないので、学問の自由で馬乗りして主導権を奪いたい。

 欧州人は自己の社会を彼ら自身で形成できないので、学問の自由で馬乗りしたい。だから、彼らは学問の自由を彼らの文明の象徴として賛美する。普通に考えれば、わかるが、ユダヤ教やキリスト教は中東発祥であり、欧州発祥でない。

加えて、古代ギリシアや古代ローマはおそらく欧州小人種でなく、地中海小人種であった。西洋文明の骨格は中東人や地中海人によって形成されている。つまり、西洋文明は自己の文明や自己の社会(宗教や文字や文明)を彼ら自身で形成できてこなかった。

しかし、欧州人は物事を分析する高い能力を持っていた。彼らは創造主が創造した自然界や中東人が形成した宗教を分析することに長けていた。当然、中東人が自己の宗教形成能力を阻害されることを恐れるように、欧州人はこの種の能力が阻害されることを何よりも恐れるだろう。

自分で文明を形成できない人々の卑しい行為

 欧州人は自己の宗教や自己の社会を彼ら自身で形成できない。では、彼らはどのような戦略をとるべきであるのだろうか?この戦略の一つが学問の自由である。

欧州人は自己の宗教や自己の社会を彼ら自身で創造できないので、他人に創造してもらった対象を上から目線で正しく分析することによって、彼らは他人に優越したいと考える。例えば、文学者は本当は作家になりたいのに、なれないので、評論家になって、作家にマウンティングしようとする。

または、宗教学者が宗教の創造者である教祖を分析して、マウンティングしようとする。当然、作家や教祖はこの種の欧州人をひどく嫌い、彼らをマウンティングするなと批判するだろう。そして、その批判は正当である。

自己のマウンティング行為の正当化

 では、欧州人はこの種の批判をどのように交わして、自己のマウンティング行為をどのように正当化すべきであるのだろうか?この手法の一つが「学問の自由」である。たとえマウンティング行為を教祖や作家に批判されるとしても、欧州人は「学問の自由」を掲げて、嫌がらせを継続することができる。

言い換えると、生産者や創造者をキリスト教的な無抵抗の概念によって無効化する。そして、彼らは何かを作るよりもそれを分析する人間が偉いのだという奇妙な価値観を学問で押し付けてくる。欧州人の「学問の自由」は非常に政治的な考えである。

欧州人は古代中東人のようにユダヤ教やキリスト教を創造できなかった。その苦肉の索として、宗教を創造できなくても、中東人にマウンティングするための手法、つまり学問の自由を編み出した。

学問の自由の問題点

 学問の自由の問題点:社会の依存者や副産物や媒介が権力を持つ。

 社会の依存者や副産物や媒介が権力を持つ。本来であれば、社会の形成者(創造者)や社会における競技者や社会の管理者や統治者が権力を持ち、保護される必要がある。けれども、学問の自由では、社会の分析者が保護されている。

これはサッカーで例えると非常に奇妙である。サッカー・システムの形成者(創造者)でなく、サッカー・システムの分析者が保護されて、重宝されている。サッカーを見るとわかるように、サッカー・システムの形成者(創造者)が一番偉く?、次にサッカー・システムのシステムの統治者や管理者、最後にサッカー・システム競技者が偉くなっている。

サッカー・システムの分析者はあまり必要とされていない。けれども、学問の自由では、サッカー・システムを分析する分析者が学問の自由で保護されて、先生と煽てられている。さらに悪いことに、単なる分析者がシステムの管理者や統治者、そして競技者を侮辱して、愚かであると庶民を見下している。

社会の形成も管理もできない馬鹿が権力を持つ

 大和民族の学者を見ると、俺らは学問の自由に反対するようになるだろう。彼らは大学という社会を彼ら自身で形成できないので、彼らは白人に作ってもらって与えてもらった。しかし、彼らは社会の管理もできないので、彼らは大学をまともに運営できないでいる。

加えて、彼らは大学の構成要員としてもまともに競技できていない。彼らは東南アジア人のように怠惰であり、罰や解雇がないと、彼らは論文も書こうとしない。この種の下等生物が学問の自由や大学の自治の下で、先生と呼ばれて、権力を持っている。

税金や保護の下で、この種の体たらくである。大和民族の学者はサッカー選手としても無能であり、サッカーシステムの管理者や統治者としても無能である。さらに、彼らは大学という小規模な社会システムすら彼ら自身で形成できないでいる。文字通り、彼らは何もできない。分析を除いて。

中国共産党の決定

 俺の認識:中国共産党が学問の自由を認めないことは悪でない。

 中国共産党が学問の自由を認めないことは悪でない。俺らが学問の自由を認めるとき、社会の依存者が不必要な権力を持つ。彼らは社会それ自体を形成できないし、管理できないので、彼らは社会を崩壊させる原因になるだろう。

俺は中国共産党の決定は慧眼であると審判する。サッカー・システムの分析者が台頭すれば、サッカーが衰退するのは当然である。これは宗教や文学にも言えて、単なる宗教の分析者や文学の分析者が教祖や作家を凌駕すれば、その分野は衰退する。もし科学者が自然界を優越するならば、自然界は崩壊するだろう。

人間社会におけるサッカー選手にとって、最も重要なことは知ることでなく、社会システムの安定と維持である。サッカー選手はシステムの分析者それ自体を必要としていないだろう。