《他の作業はいったん後回しにして、アンチアカウント対策(訴訟準備)に集中します》 昨年5月30日、ブロガー・作家の「はあちゅう」こと伊藤春香氏は、自身のブログでこう宣言した。同日には《誹謗中傷が成立するかどうかは、明確な基準があるわけではなく、訴えてみないとわからない》《片っ端からいきます》とツイート。直前にはSNSでの誹謗中傷を受けていたプロレスラーの木村花さんが自ら命を絶つ事件も起こっており、徹底抗戦を誓う姿勢は多くの支持を集めた。 【画像】はあちゅう氏の訴訟宣言「片っ端からいきます」 その後、宣言通りプロバイダに発信者情報の開示を請求し、昨年11月の時点で開示決定が出た投稿やアカウントは約240件。東京地裁では今も連日、はあちゅう氏を原告人とする開示請求や訴訟が行なわれている。しかし、その中には首を傾げたくなるような訴訟も提起されているようだ。
https://news.yahoo.co.jp/articles/800f5b8c1fa1909dde7b83d1c5ff31ebe6ac8770
上記の記事によると、はあちゅうという作家?は誹謗中傷に関する訴訟を何回も訴え出てきた。しかし、人々は彼女の訴訟の乱発さと訴訟の内容から彼女の行為の善性それ自体を疑っているように見える。以下では、俺はこの種の訴訟の乱発に関する俺の認識を提示するつもりである。
なお、俺はキリスト教徒でなく、西洋文明でなく東洋文明に所属する。加えて、俺は母系儒教徒であるので、キリスト教系統の日本国憲法を宗教的な侮辱と認識して、その廃止を強く求めている。以下では、俺は日本列島の上の大和民族の法律関係者の統治能力の無能さについて提示する。
伊東春香に関する問題点
問題点
俺の認識 伊東春香も福永活也は自己の宗教を彼らの言葉できちんと明らかにせずに、キリスト教系統の法律を振り回している。
この種の行為は非常に卑怯である。例えば、アメリカ国民の大部分はキリスト教徒、またはユダヤ教徒である。そして、彼らは自己の宗教をきちんと明らかにした後に、彼らはキリスト教系統の憲法であるアメリカ合衆国憲法を使用する。
それに対して、俺は伊東春香や福永活也の宗教が何であるのかを知らない。もし彼らはキリスト教徒でないのに、キリスト教系統の憲法を使用するならば、その時、彼らの行為は宗教的に正当でない。なぜなら、その状態は仏教の僧侶がイスラム教を俺らに適用するような状態である。米国も欧州も弁護士の大部分はキリスト教徒かユダヤ教徒である(なぜなら、彼らの憲法はキリスト教系統の憲法)
無宗教とは自己の善悪が存在しない状態である。善悪を持たないホモ・サピエンスが善悪から導出される法律を使用することは非常に悪い。これは善悪を持たない無宗教や子供が拳銃や核爆弾を持つことに等しい。個人的な印象では、俺らはどんな系統の善悪を持っているのかわからない人々が法律を使用することそれ自体に反対する。
問題点
俺の認識 伊東春香や福永活也は自己の宗教を明らかにしないので、誰も伊東春香や福永活也は何を損害とするのかを審判することができない。
伊東春香や福永活也は複数の訴えを繰り返し起こしてきた。けれども、人々は伊東春香や福永活也の宗教を知らないので、彼らは伊東春香や福永活也が何を損害とするのかを審判することができない。俺は伊東春香や福永活也によって訴えられた人々の記録(電飛)を読んだが、彼らの文章がどの程度の損害を伊東春香や福永活也に与えたのかを与えたのかを審判することができなかった。その他には、lawkusや高橋雄一郎という弁護士が存在する。
上記でも述べたが、宗教を明らかにしてくれないと、俺らは損害を計算することができない。例えば、俺は伊東春香や福永活也はキリスト教的な罪に関係したことを損害と認識するのか、東洋的な礼に関係したことを損害と認識するのか、あるいは仏教における概念かイスラム教における罪?かもわからない。けれども、伊東春香や福永活也は訴えを活発に引き起こしてきたので、拳銃を持った子供や核爆弾を持った無宗教のホモ・サピエンスのように感じる。
当然であるが、人間の不快感やムカつきは損害でない。例えば、俺は儒教徒であり、「異常者」や「キモい」、「馬鹿」などと侮辱されているが、発言者を訴えていない。なぜなら、俺はこの種の行為を失礼と認識するが(当然カチンとくる)、単発的なものは(訴え出るような)損害になっていないと認識する。ただし、俺の場合、俺はアメリカ大陸の多様性の賛美を人種的な侮辱として損害と明確に認識して、記録をつけてきた。
問題点
俺の認識 伊東春香や福永活也は自己の宗教を明らかにしないので、誰も伊東春香や福永活也の実現したい社会の系統を認識することができない。
俺は伊東春香や福永活也の宗教を知らない。だから、俺は伊東春香や福永活也が実現したい社会の系統を知らない。伊東春香や福永活也は訴えを繰り返しているが、俺は現在の状態が伊東春香や福永活也が実現したい社会であるのか非常に疑問に思う。
個人的には、俺は母系としては儒教徒であり、東洋文明に所属して、礼によって判断される儒教的な社会を実現したい。そして、伊東春香や福永活也の行為は俺が実現したい社会の系統に反する。従って、俺は伊東春香や福永活也の行為に賛成しない。
けれども、上記でも述べたように、俺は伊東春香や福永活也が実現したい社会の系統が何であるのかわからないので、俺は伊東春香や福永活也と意思疎通できないだろうと感じる。伊東春香や福永活也はキリスト教系統の社会を実現したいのか、仏教系統の社会を実現したいのだろうか?伊東春香や福永活也は自己の実現したい社会の系統を彼ら自身の言葉できちんと表現する必要がある。
法律に関する問題点
問題点
俺の認識 法律の目的は民を懲らしめることでない。
当然、法律の目的は民を萎縮させたり、謝罪させたり、土下座させたり、罰したりすることでない。例えば、サッカーのルールの目的は選手を統治することであり、選手を懲らしめたり、謝罪させたり、土下座させたり、罰したりすることでない。もしサッカーのルールの目的が選手を罰で萎縮させるために存在するならば、誰もサッカーのルールで競技しようと思わないだろう。
伊東春香や福永活也の開示請求の乱発を見ると、俺は伊東春香や福永活也にとって法律とは何であるのかと疑問に思う。上記でも述べたが、俺は伊東春香や福永活也の宗教を知らないので、俺は伊東春香や福永活也による法律に対する宗教的な視点や認識も知らない。
儒教的には、俺は法律の目的は名前や住所、会社の暴露による制裁や糾弾、脅迫や恫喝でない。そして、制裁が目的となる場合、この種の法律は廃止されるべきである。俺にとって、法律の目的とはあくまでも民の統治である。俺は民の統治を破壊するような法律の使用を正当でないと認識する。俺は法律による民の統治が破壊されるような言動のみに開示請求が認められるべきであると認識する。
問題点
俺の認識 訴えに関して、相互性のロゴスが存在しない。
俺は伊東春香がどのような人物であるのかを知らない。けれども、俺は伊東春香は真面目な書き手でなく、おちゃらけた書き手であるように見える。もし伊東春香がこの種の書き手を演じていたならば、その時、伊東春香に対するある程度強い批判は想定内である。
にも関わらず、伊東春香は訴えを簡単に起こしてきたので、伊東春香は多くの人々によって批判されているように思える。言い換えると、伊東春香の行為には、相互性が存在しない。その結果、伊東春香の行為は「俺は良い、でもお前はダメ」と言った印象を読者に結果的に与えているように見える。
個人的には、俺は訴えには相互性や公平性、訴える主体のキャラ(性格)も考慮されるべきであるように見える。伊東春香は童貞いじりに関して批判されてきた。もし伊東春香がこの発言を実行したならば、読者は伊東春香をそのようなおちゃらけキャラと認識するだろう。福永に関しても同様であり、電飛によると、福永はゴミや底辺という単語を使用したらしい。個人的には、俺はこの種の発言をそこまで問題視しないが、もし彼がこの種の単語を使用するならば、彼が関係する訴えもまた相互的でない。
問題点
俺の認識 多い訴訟や開示請求それ自体が損害をされる側に与えている。
人間は訴えられると、人々はお金だけでなく、時間も取られる。俺は意味のある訴えのみが善な訴えであると認識する。個人的には、もしある主体が無意味な訴えを繰り返すならば、される側は時間や費用に関する損害をその主体に請求することができるとしたい。
伊東春香や福永活也は訴えを乱発しているが、この訴えにおける不要なものは損害をされる側に与えているように思える。この場合、された側は時間や費用に関する請求を逆に訴えの主体に請求できるようにしたい。例えば、「ばか」と匿名で(本人向けでなく)数回書かれた程度、裁判を起こす行為は、俺は善と判断しない。
なぜなら、その書き込みが損害xを与えたと仮定するとき、裁判に対応する側の時間と費用は損害xを上回るように感じる。時間と費用をyとする。もしyがxよりも大きいならば、xに関する裁判それ自体は起こされる必要はない。
