論理学における真偽と否定

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 以下では、俺は論理学における真偽を提示するつもりである。ここでは、俺は自動車が存在するをPとし、車輪が存在するをQとする。そして、もし自動車が存在するならば、車輪が存在するを一つの推論とする。

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真偽

 自動車が存在するが真である。この時、自動車が存在する。車輪が存在するが真である。この時、車輪が存在する。もし自動車が存在するならば、車輪が存在するが真である。この時、もし自動車が存在するならば、車輪が存在する。

 自動車が存在するが偽である。この時、自動車が存在しない。車輪が存在するが偽である。この時、車輪が存在しない。一般的に、文P「AはBである」が偽であるとき、文PはNot P「AはBでない」になる。

実際

 個人的には、俺は真偽でなく、実際という単語を使用するとき、俺は論理学における真偽を感覚的に把握できるように感じた。例えば、自動車が実際に存在する。これが自動車が存在するが真であるに対応する。自動車が実際には存在しない。これが自動車が存在するが偽であるに対応する。

たとえ俺がある文を提示するとしても、その文が実際であるのか、言い換えると、実際に成り立っているのかは不明である。だから、俺はその文の実際性を調査する必要がある。つまり、俺はその文の真偽を調査する必要がある。

例えば、推論「もし自動車が存在するならば、車輪が存在する」が存在する。一見すると、この推論は正しいように感じる。けれども、それぞれの節が実際であるのかは現時点では不明である。ただし、下記で見るように、論理学では、変数xがない場合、その文や推論の真偽は定まると考えられているように見える。

真偽不明(変数系)

 自動車が存在する。俺がこの文を「x は存在する」と変形する。この時、この文の真偽は定まらない。または、「x は実際に存在する」のかどうかは不明である。「もしxが存在するならば、車輪が存在する」や「もしxが存在するならば、yが存在する」も同様である。文や推論の真偽(実際性)が変数xに依存している。

謎(真偽が定まるように見える)

 もしxが日本人であるならば、xは東洋人である。たとえ俺がxをこの推論に代入しなくても、この推論は正常に機能するように感じる。また、日本人は東洋人である。この文も謎である。ただし、日本人や東洋人を遺伝子Xを持つホモ・サピエンスと仮定するとき、遺伝子検査が必要になるだろう。

なぜなら、たとえ俺がこの文が実際であるかを調査しなくても、俺はこの文の真偽を判定することができる。自動車が存在するという文の場合、俺は自動車が実際に存在するのかを調査する必要がある。しかし、定義に近い文の場合、俺は調査なしに文の真偽を判定することができる。一般的に、現象の真偽は実際の調査が必要である。

真偽

 俺の認識 真は文を肯定表現に変化させる。

 または、真は文を維持する。ここでの肯定表現は次である。真は〜であるを〜であるに変化させる。真は〜でないを〜でないに変化させる。

もし植物が存在するが真であるならば、植物が存在する。同様に、もし植物が存在しないが真であるならば、植物は存在しない。

 俺の認識 偽は文を否定表現に変化させる。

 この否定表現は下記の否定でなく、日常的な意味での否定である。例えば、偽はであるをでないに変化させる。偽はでないをであるに変化させる。

もし植物が存在するが偽であるならば、植物は存在しない。もし植物が存在しないが偽であるならば、植物が存在する。

否定

否定

 俺の認識 否定は、文の真を偽に変化させる、または文の偽を真に変化させる操作である。

 書き換えると、否定とは、一つの操作で、それはある文の真を偽に変化させる、またはある文の偽を真に変化させる。Pの否定はーPである。もしPが真であるならば、Pの否定は偽である。もしPが偽であるならば、Pの否定は真である。

今、俺はPを「植物が存在する」と置く。もし「植物が存在する」が真であるならば、「植物が存在する」の否定は偽である。もし「植物が存在する」が偽であるならば、「植物が存在する」の否定は真である。

俺の感覚としては、否定は文の真偽を変化させるのであり、否定は文それ自体を変化させない。しかし、文の真偽それ自体は文を変化させる。当然であるが、真偽が変化するとき、文それ自体も変化する。だから、否定→真偽の変化→文の変化になる。否定の考えは加速度や関数の変化を与えるような考え(力やエネルギ変化)である。

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