俺らの宗教

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 以下で、俺はこの宗教の外観を大雑把に提示する。この新興宗教「俺らについて」では、俺らは宗教を一種のシステムと認識する。日常的には、俺らは宗教をサッカーのような運動競技システムに近いシステムと認識する。

宗教

宗教

 宗教に対する印象 宗教とは、ある種の社会システムである。

 この印象では、宗教とは運動競技という運動システムの社会版である。システムとは、集合(境界)と要素と決まりの組みである。

運動システムはシステムの一種である。例えば、サッカー(の試合)は競技場とサッカー選手とサッカールールの組みである。その組みは一種のシステム(運動システム)を形成している。

自然界は宇宙と物質と自然法則の組みというシステムである。国家は領土と民と法の組みというシステムである。この宗教における宗教観もまたサッカーのような運動競技システムや自然界、国家のようなシステムである。

宗教家と宗教機能

 この宗教に対する印象 この宗教は「宗教家」と「宗教機能」によって構成される。宗教家は世界観と主体と目的の組みである。宗教機能は死生観と性規範と富の規範と善悪と契約や刑罰の組みである。

 宗教家は宗教の骨格である。宗教家は世界観と人間と目的からなる。世界観は集合(境界)に対応して、人間(主体)は要素に対応して、目的が決まりに対応する。宗教機能は骨を実際に機能させる役割を持ち、宗教機能には、死生観や性規範、富の規範や善悪、契約や刑罰が存在する。

宗教家に対する俺らの印象は実際の家である。家には、建物(集合)と家族(要素)と家族の掟(決まり)が認識されていて、その組みは一種のシステムを形成している。なお、この新興宗教では、俺らは法(要素の運動法則)を目的から導く。

しかし、家という骨格だけでは、宗教というシステムは機能しない。実際、骨格だけでは人体は機能しないように、家だけでは家族システムも実際には機能しない。そこで、俺らは宗教的な機能を家に与える。その機能は人体では臓器に対応する。家という骨格をOSと仮定すると、機能という臓器はアプリケーションである。

宗教家

分岐(世界観)

  分岐世界:俺らは物質が無から分岐して、蟲が物質から分岐して、ヌシが蟲から分岐していると信仰する。

 俺らは物質が無から分岐して、蟲が物質から分岐して、ヌシが蟲から分岐していると信仰する。俺らはこの世界を物と蟲とヌシの組みであると信仰する。俺らは物と蟲とヌシが今分岐していると信仰する。

俺らは物を無から今分岐していると信仰する。俺らは蟲を物から今分岐していると信仰する。俺らはヌシを蟲から今分岐していると信仰する。蟲とは、視界や性欲や感情である。ヌシは主体である。

上記を例えると次になる。俺らは物と蟲とヌシからなっている三重の存在(巴)である。物は車体に対応して、蟲は車体の中のインターホン画面(視界)やホログラムに対応して、運転手がヌシに対応する。車体は無から分岐して、インターホン画面は車体から分岐して、運転手はインターホン画面から分岐している。そして、その分岐は過去に一度実行されたのでなく、今現在毎秒毎秒分岐している。

ヌシ(主体)

 ヌシ 俺らはヌシを自己と信仰する。

 俺らはヌシを自己と信仰する。俺らは俺らの自己が永遠にヌシであると信仰しない。俺らはヌシを復活の主体(対象)と信仰する。

上記の例えでは、俺らは車体やインターホン画面(視界)でなく、運転手を自己と信仰する。俺らの意識は俺らの自己でなく、蟲である。俺らはヌシを知覚したり、俺らの知覚を基盤として認識することができない。けれども、俺らはヌシを創造主とは異なる対象や主体として捉えている。俺らはヌシを信仰していると認識する。

ただし、創造主に対する信仰とヌシに対する信仰は互いに異なっているように思える。具体的には、俺らは創造主を捉えられないが、ヌシを捉えているように感じる。俺らの肉体は単なる車体であり、動産(資産)と認識される。俺らの主体であるヌシがその車体を不可分に所有していると信仰する。

ヌシの復活(目的)

  ヌシの復活 俺らは俺らの子孫が俺らのヌシの復活を実現させることを信仰する。

 俺らは俺らの子孫が俺らのヌシの復活を実現させることを信仰する。俺らは現在の物と蟲とヌシの巴世界からより分岐させることを信仰する。俺らは俺らの子孫がヌシでない新たな自己を創造することを信仰する。

分岐的な世界観では、俺らの主体は物質的な世界から分岐している。だから、俺らは物質的な世界の完全なる奴隷でないので、より分岐すれば、俺らの子孫はお俺らのヌシを復活できるかもしれないと信仰する。

物質的な世界の決まりでは、俺らの車体の運動は物質的な世界の決まりに束縛される。けれども、俺らの主体や蟲は物質的な世界から分岐しているので、物質的な世界の決まりに束縛されない何か、つまりヌシの復活を実行できるかもしれない。俺らはそのように信仰する。また、俺らのヌシがヌシの世界からさらに分岐するとき、俺らはヌシでない新たな主体を獲得できるかもしれないと信仰する。

宗教機能

死生観

  ヌシの復活 俺らは俺らの子孫が俺らのヌシの復活を実現させることを信仰する。

 俺らは俺らの子孫が俺らのヌシの復活を実現させることを信仰する。生(生きている)とは、生とは、ヌシが蟲世界から分岐している状態である。死(死んでいる)とは、ヌシが蟲から分岐されなくなる状態である、または蟲が物から分岐されなくなる状態である、または物が無から分岐されなくなる状態である。 

性規範

  分岐性観 俺らは俺らのを分岐させることを信仰する。

 俺らは俺らの性を分岐させることを信仰する。俺らは俺らの性を分岐させることを信仰する。言い換えると、俺らは新たな性を創造することを信仰する。俺らが性蟲を動物に対応させると仮定すると、俺らはヌシに対応する性がないことに気づく。

だから、俺らはヌシに対応する性を分岐によって創造することを試みる。例えば、現在、ホモ・サピエンスには、雄と雌が観察される。俺らは雄でも雌でもない新たな性を創造することを試みる。この新たな性は物質的に新たなだけでなく、蟲的にもヌシ的にも新たな性であるように創造する。

富の規範

  俺らの富の規範 俺らは俺らのそれぞれのヌシが俺らのそれぞれの蟲や物(肉体)を直接的に所有するという富の規範(ヌシ所有観)を信仰する。

 俺らは俺らのそれぞれのヌシが俺らのそれぞれの蟲や物(肉体)を直接的に所有するという富の規範(ヌシ所有観)を信仰する。この宗教では、俺らは俺らのヌシが対象を所有すると信仰する。つまり、俺らのヌシが俺らの蟲を一次的に所有する。俺らのヌシが俺らの肉体(車体)を一次的に所有する。

さらに、俺らは俺らの肉体を通して肉体の外部の対象を二次的に所有する。そこでは、俺らの肉体は(ヌシや蟲と不可分な)俺らの車体のような対象と信仰される。俺らはこの種の富の価値観を「ヌシ所有観」と呼ぶ。

この宗教では、俺らは自己(主体)を信仰するので、所有の主体はヌシである。対象がヌシによって所有される時、その対象はヌシの意志(力)によって運動させられる。俺らは意志による対象の運動は所有行為から導かれると信仰する。

約束

  約束 俺らは約束をヌシ同士による対象や対象の存在や状態や運動に関する相互的な認識と信仰する。

 俺らは約束をヌシ同士による対象や対象の存在や状態や運動に関する相互的な認識と信仰する。契約の主体はヌシである。俺らは約束を相互的な認識と信仰する。俺らは機械的な約束(定義約束)を物と信仰する。また、約束は自由意志にも基づくが、約束に対する正常な認識も考慮する。

善悪

   善悪とその正当化 俺らは善悪を分岐で正当化する。

 俺らは善悪を分岐で正当化する。俺らはこの宗教の目的の方向により分岐された対象や対象の存在及び状態及び運動を善と比較的に判断する。俺らはこの宗教の目的の方向により分岐されていない対象や対象の存在及び状態及び運動を悪と比較的に判断する。

刑罰

  刑罰(人誅) 俺らはより分岐されたヌシが分岐された対象の蟲(怨念など)をその対象の代わりに俺らの世界に実現する。

 俺らはより分岐されたヌシが分岐された対象の蟲(怨念など)をその対象の代わりに俺らの世界に実現する。俺らはより分岐された主体(対象)が刑罰を実行することを善と判断する。また、損害が刑罰を導く