俺系統の宗教

 以下で、俺はこの宗教の外観を大雑把に提示する。この新興宗教「俺らについて」では、俺らは宗教を一種のシステムと認識する。日常的には、俺らは宗教をサッカーのような運動競技システムに近いシステムと認識する。

応答背景

 以下では、俺は世界における宗教を提示するつもりである[意志]。世界における宗教には、セム系宗教とハム系宗教とアーリア系宗教(ヤペテ系宗教)と仏教と儒教がある。その他には、日本神話が存在する。

世界における神話及び宗教

 俺系統の認識 Y染色体ハプログループ(父系)と言語と神話及び宗教は互いに対応する。

 セム人とは、Y染色体ハプログループJを持つコーカサス人種である。彼らはユダヤ教とキリスト教とイスラム教を創造した。セム系宗教とは、ユダヤ教とキリスト教とイスラム教である。言い換えると、セム系宗教とは、セム人が創造した宗教である。セム人の宗教署はセム語族で描かれる。

ハム人とは、Y染色体ハプログループEを持つコーカサス人種である。彼らはエジプト神話をを創造した。ハム系宗教はエジプト神話である。言い換えると、ハム系宗教とは、ハム人が創造した宗教である。ハム人の宗教署はハム語族で描かれる。

アーリア人とは、Y染色体ハプログループRを持つコーカサス人種である。彼らは印欧神話をを創造した。アーリア系宗教は印欧神話である。言い換えると、アーリア系宗教とは、アーリア人が創造した宗教である。アーリア人の宗教署は印欧語族で描かれる。

釈迦は仏教を創造した。釈迦の言語は印欧語族であった。しかし、釈迦のY染色体ハプログルーは不明である。もし釈迦が印欧語族を持っていたならば、釈迦はY染色体ハプログループR1aを持っていた可能性がある。しかし、個人的な印象では、俺は仏教はアーリア人の宗教でないように感じる。

孔子は儒教を創造した。孔子の言語はシナ・チベット語族であった。しかし、孔子のY染色体ハプログループはC2系統であった可能性がある。日本神話が誰によって創造されたのかは不明である。もし天皇家がY染色体ハプログループD1a2であったならば、日本神話はD1a2系統及び日琉語族の神話である。モンゴル人はY染色体ハプログループC2系統を持ち、アルタイ語族を持つ。しかし、俺の印象では、モンゴル人の神話は印欧神話それ自体であるように見える。

Y染色体ハプログループG(G2a)やY染色体ハプログループHやY染色体ハプログループIの言語や神話は不明である。ドラヴィダ人はY染色体ハプログループHを持ち、ドラヴィダ語族を持つが、彼らの神話は未知である。Y染色体ハプログループIはバルカン半島や北欧に見られる。北欧神話がY染色体ハプログループIの神話であるのかは不明である。しかし、俺は北欧神話はギリシア神話を含む印欧神話と異なるように感じる。

Y染色体ハプログループA及びY染色体ハプログループBの神話は神話よりも原始的な精霊信仰に見える。Y染色体ハプログループL及びY染色体ハプログループTの言語と神話は未知である。俺はY染色体ハプログループM及びY染色体ハプログループSの言語と神話を知らない。Y染色体ハプログループQはアメリカ先住民の言語であり、彼らの神話は印欧神話に類似する可能性がある。Y染色体ハプログループNはウラル語族を持つが、彼らの神話は俺にとって未知である。

神話

 俺系統の認識 神話は認識と民族をホモ・サピエンスに父系で授ける。

 神話には、世界に対する民族の認識がある。また、神話それ自体が民族を半人工的に定める。あるホモ・サピエンスの集団が神話aを共有するならば、その集団は同じ民族である。例えば、大和民族には、Y染色体ハプログループD1a2とY染色体ハプログループO1b2とY染色体ハプログループO2aが含まれる。しかし、彼らは日本神話における同じ民として登場する。その結果として、彼らは異なるY染色体ハプログループを持つのにも関わらず、彼らはなぜか同じ民族として扱われる。

もしある民族が自己の神話を失うならば、その民族は世界に対する自己の認識と自己の民族を失う。彼らは父系で授けられてきた認識を失う。その結果、その民族は世界を知覚することしかできなくなる。この時、彼らは人種は存在しないと主張するようになる。さらに、その民族は自己の民族を失うので、彼らは国民国家における国民や宗教における教徒や宗教の宗派を自己の民族と擬似的に信仰するようになる。

世界に対する認識は食品に対する味(味覚)に類似する。たとえ俺が食品の科学的な成分を調べるとしても、俺はその食品の味を知ることができない。同様に、たとえ俺が人体の遺伝子を調べるとしても、人体に対する認識を知ることができない。この時、俺は味は存在しないや人種は存在しないと言う可能性がある。

宗教

 俺系統の認識 a系統の宗教は信仰とa系統の人間性をホモ・サピエンスに父系で授ける。

 神話と宗教の違いの一つには、善悪の有無がある。神話は自己の父系の善悪を持たない。一方、宗教は自己の父系の善悪を持つ。x系統の善悪はx系統の人間性の一つである。x系統の人間性には、x系統の善悪やx系統の富の規範やx系統の思考の規範、x系統の性の規範、x系統の約束が存在する。つまり、神話と宗教の違いには、人間性の有無がある。宗教は自己の父系の人間性を持たない。一方、宗教は自己の父系の人間性を持つ。

セム系の宗教を考えると、セム系統の宗教はセム系統の人間性をホモ・サピエンスに授ける。そのとき、そのホモ・サピエンスはセム系統の人間になる。セム系統の人間とは、セム系統の人間性を父系で授けられたホモ・サピエンスである。セム系統の人間性には、セム系統の善悪やセム系統の富の規範やセム系統の思考の規範、セム系統の性の規範、セム系統の約束が存在する。

儒教を考えると、儒教系統の宗教は儒教系統の人間性をホモ・サピエンスに授ける。儒教におけるY染色体ハプログループは不明であり、C2系統の可能性もある。俺は仏教は何らの善悪や人間性をホモ・サピエンスに授けているように見える。けれども、釈迦の人間性が何であるのかは未知である。

世界には、多くの神話が存在してきた。けれども、多くの宗教は存在してこなかった。なぜなら、ホモ・サピエンスの大部分は自己の認識までは形成することができるが、彼らは自己の父系系統の善悪、自己の父系系統の人間性を創造することができてこなかった。動物は高度な言語や文字を持たないが、高等動物は原始的な認識を持っているように見える。しかし、任意の動物は自己の善悪を持っていない。任意の動物は自己の人間性を持っていない。

俺系統の宗教

 以下では、俺はこの宗教における俺系統の宗教を俺系統の認識で認識する。一般的には、宗教aはa系統の人間性をホモ・サピエンスに授ける。その時、そのホモ・サピエンスはa系統の人間になる。つまり、a系統の人間とは、a系統の人間性を父系で授けられたホモ・サピエンスである。

俺系統の宗教

 俺系統の認識 俺は俺系統の宗教を俺系統の社会システムと認識する。

 社会システムには、運動競技や国家や文明がある。例えば、サッカーは自己の善悪(レッドカード)や自己のルールや自己の選手や自己の境界(世界)を持っている。同様に、それぞれの宗教は自己の善悪や自己のルールや自己の選手や自己の境界(世界)を持つ。その他の印象としては、俺は俺系統の宗教を俺系統の人工的な世界システムと認識する。運動競技が自然界の中には所属していないように、宗教それ自体も自然界の中には所属していない。だから、俺はその世界を自然界の上に人工的に創造する。

俺らが自己の人間社会を形成するためには、善悪に加えて、自己の世界観や自己の死生観や自己の目的、自己の性規範や自己の富の規範、自己の思考の規範、自己の法体系や自己の契約観や自己の刑罰、自己の人間観が必要である。もしあるホモ・サピエンスが自己の性規範を持たないないならば、そのホモ・サピエンスは可愛い女の子に発情して公的な場所で群がり、試合を崩壊させるだろう。もしあるホモ・サピエンスが自己の富規範を持たないないならば、そのホモ・サピエンスは研究費を国民から借りることができず、分析行為を衰退させるだろう。このように、宗教それ自体は人間社会の原因である。宗教なしに、人間社会を形成することは非常に困難である。

加えて、俺はこの宗教を神話と宗教の和と認識する。つまり、俺系統の宗教は世界に対する認識と民族、そして善悪を始めとする人間性(humanity)を俺らに授ける。俺系統の宗教は俺系統の人間性をホモ・サピエンスに授ける。その時、そのホモ・サピエンスは俺系統の人間になる。つまり、俺系統の人間とは、俺系統の人間性を父系で授けられたホモ・サピエンスである。この人工世界は父系で父から息子へと伝達される。その時、理想的には、俺系統の人間性と俺系統の言語と俺系統の父系(Y染色体)が一緒に伝達される。俺はこの宗教を人工的な世界を認識するので、人工的な世界が父から息子へと遺伝子のように伝達される。

父系宗教と母系宗教

 父系宗教 俺らはこの宗教「俺らについて」を父系宗教として信仰する。

 俺らはこの宗教「俺らについて」を父系宗教として信仰する。すなわち、俺らはこの宗教は俺から父から息子へと宗教的に授けられていくと信仰する。また、結婚認識(信仰)を通して、俺らは俺らの人間性を結婚相手に宗教的に授ける。

  母系宗教 俺らは儒教を母系宗教として信仰する。

 俺らは儒教を母系宗教として信仰する。俺らは儒教の東洋文明を母系宗教と信仰する。この母系宗教は東洋人と意思疎通を取るために現実的に必要である。母系宗教は東洋文明を形成して、かつ維持するために必要である。加えて、母系宗教は東洋文明が安易にキリスト教化されないために必要である。また、俺は母系民族宗教として神道も信仰する。もし儒教や神道が存在しなかったならば、俺はこの宗教を創造することができなかっただろう。それはもし自然界や農地や俺の母が存在しなかったならば、俺が生まれてこなかったことに似ている。しかし、儒教や神道はこの宗教の原因や俺の原因でない。

社会形成

 俺系統の認識 俺系統の宗教は自己の俺系統の社会形成のためにある。

 例えば、都市景観は自己のx系統の社会形成の一つである。また、言語(カタカナ用語の排除)や肉体のデザインの改善も自己のx系統の社会形成の一つである。加えて、現在から未来への自己のx系統の歴史形成は社会形成の代表的な一つの例である。その他には、善悪や富の貸し借りや法体系、刑罰や所有、契約の考えや富の規範も社会形成の一種である。さらに、自己の人種や自己の民族に対する認識の提示も社会形成の例の一つである。

上記でも述べたが、この宗教はある種の社会システムである。一般的に、大和民族は宗教を民を救ったり、祈ったり、修行したりする何かであると感じているように見える。または、彼らは宗教は世界の姿を明らかにするものであると感じているように見える。けれども、俺はこの宗教は民を救う何かでなく、世界の姿を明らかにするものでなく、宗教は人間の社会システムを形成するものと認識する。つまり、この宗教は人間競技を形成したり、運動競技を形成する。宗教は人間社会の原因それ自体である。その人間社会が固有の文明を形成する。

日常的には、俺らが政治活動や統治行為を実行する時、俺らは宗教それ自体を必要とする。

俺らについての外観

 以下では、俺は「俺らについて」について簡単に述べるつもりである。

信仰対象

 俺系統の信仰 俺は自己の運転手が実際であること信仰する。また、俺は自己の意識(蟲)が実際であることを信仰する。

 俺は自己の運転手を把握している。俺は自己の意識を把握している。けれども、俺は他者の運転手を自己の運転手のように把握することができない。同様に、俺は他者の意識を自己の意識のように把握することができない。たとえ俺が俺は俺の運転手を把握していると主張するとしても、他者は俺の運転手を把握することができない。そのため、俺は俺の運転手が実際であると他者と共有することができない。そこで、俺は自己の運転手が実際であることを信仰する。同様に、俺は自己の意識が実際であることを信仰する。

日常的には、俺は物質を自動的に知覚することができるので、俺は物質が実際であることを信仰しない。ただし、宗教的な解釈によっては、俺は物質も実際であることを信仰する。俺は運転手が俺らの自己それ自体(俺自身)であることを信仰する。

 俺系統の信仰 俺は自己の運転手を自己であると信仰する。

 俺の観察では、何が自己であるのかはホモ・サピエンスに応じて異なるように見える。ある主体は自己の肉体や自己の顔それ自体を自己と感じているように見える。他の主体は自己の意識それ自体を自己と感じているように見える。この宗教では、俺は自己の運転手それ自体を自己と信仰する。この宗教では、何が自己であるのかは信仰によって決められる。

 俺系統の信仰 俺は他者の運転手が実際であること信仰する。また、俺は他者の意識(蟲)が実際であることを信仰する。

俺は他者の運転手を把握することができない。俺は他者の意識を把握することができない。俺は自己の運転手や自己の意識を他者へと投影して、他者の運転手や他者の意識を間接的に把握している。または、俺は他者の運転手や他者の意識を推論や肉体の類似性から俺系統の思考規範で推測している。だから、俺は他者の運転手や他者の意識を実際であると信仰する。ただし、俺は他者の肉体は実際であると知覚する。

俺系統の信仰 俺は俺系統の人間性を唯一に正当であると信仰する。

この宗教では、俺は正当性を信仰の対象であると認識する。つまり、この宗教では、俺は俺系統の善悪や俺系統の刑罰や俺系統の認識や俺系統の言語が唯一に正当であると信仰する。男女平等が善であるのか、悪であるのかは自然界には埋め込まれてない。たとえ俺が自然界の仕組みの全てを明らかにするとしても、俺は男女平等が善であることを証明することができないだろう。そこで、俺は善悪の正当性を信仰対象と認識する。また、俺は物質世界の創造主や意識世界の創造主、そして運転手世界の創造主を便宜的に信仰する。

目的

 俺系統の信仰 俺は俺の子孫が俺の運転手の復活を実現させることを信仰する。

 言い換えると、俺は俺の子孫が俺の運転手を復活させるだろうことを実際であると信仰する。また、俺は現在の世界をさらに創造的に分岐させて、運転手でない何かや新たな世界を創造することを信仰する。さらに、俺は運転手でない新たな自己をさらなる創造的な分岐で創造することを信仰する。基本的には、この宗教では、俺は分岐を目的と信仰する。

この目的は死生観と善悪を授ける。俺は俺の運転手の復活の実現を信仰する。だから、俺は俺の運転手は死なないと信仰する。また、この宗教では、分岐が目的である。だから、俺はその目的に反することを悪いと判断して、その目的に沿うことを善と判断する。俺はこの善悪を使用して、善悪を持つ法体系を形成していく。また、目的は人間の非自動的な運動を目的的な運動へと変化させる。

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