善悪

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 以下では、俺らはこの宗教における善悪を提示する。善悪に対する俺らの印象はサッカーなどの運動競技における善悪(レッドカード)である。俺らが社会systemを創造するとき、俺らはどんな行為が悪い(レッドカード)であるかを設定する必要がある。

また、俺らが善悪を提示する時、俺らはその善悪の正しさ(正当性)を提示する必要がある。一般的には、善悪の正当性はこの世界の創造主によって授けられる。この宗教では、俺らはこの宗教の目的がこの宗教における善悪を正当化すると信仰する。

善悪

分岐と善

 分岐と善:俺らはこの宗教の目的の方向により分岐された対象や対象の存在及び状態及び運動を善と比較的に判断する。

 俺らはこの宗教の目的の方向により分岐された対象や対象の存在及び状態及び運動を善と比較的に判断する。俺らは「比較的に」という副詞を無視しない。善悪二元論では、対象や対象の存在及び状態及び運動は善か悪であるのかの二元論的に信仰された。俺らはこの善悪二元論を機械的、つまり物と認識する。

この時、俺らはヌシや蟲は機械的でないと認識するので、善悪二元論は蟲やヌシの世界から見るとより分岐的でないと審判する。だから、俺らは善悪二元論を善と比較的に判断しない。

また、この宗教の目的とはヌシの復活と分岐である。この目的がこの宗教における善悪を正当化する。

分岐と悪

 分岐と悪:俺らはこの宗教の目的の方向により分岐されていない対象や対象の存在及び状態及び運動を悪と比較的に判断する。

 俺らはこの宗教の目的の方向により分岐されていない対象や対象の存在及び状態及び運動を悪と比較的に判断する。俺らは「比較的に」という副詞を無視しない。上記と同様に、俺らは善や悪を比較的な対象として信仰する。日常的には、俺らは善悪を0と1の離散的な対象でなく、少数のような連続的な対象と信仰する。

善悪とその正当化

 善悪とその正当化:俺らは善悪を分岐で正当化する。

 俺らは善悪を分岐で正当化する。分岐はこの宗教の目的である。目的とは、実現したい対象や実現したい対象の存在や状態や運動である。

例えば、キリスト教では男女平等は善である。なぜなら、この世界の創造主がその目的を持ってこの世界を男女平等を実現するように創造したからである。創造主は男女平等というその目的を創造主の意志と信者の意志でこの世界に実現する必要がある。

上記をまとめると、一般的に、あるシステムの創造主の目的がそのシステムにおける善悪を正当化する。俺らはこの考えをこの宗教にも応用して、この宗教における善悪を俺らの目的で正当化する。つまり、分岐が善であるのは、俺がこの宗教システムを俺の目的によってそのように創造したからである。

善悪の正当化(証明)の手法

巴対応法

 巴対応法:俺らは対象、または対象の存在や状態や運動を物や蟲やヌシに信仰的に対応させて、対象、または対象の存在や状態や運動の分岐を認識(信仰)する。

 俺らは対象、または対象の存在や状態や運動を物や蟲やヌシに信仰的に対応させて、対象、または対象の存在や状態や運動の分岐を認識(信仰)する。例えば、ある対象が食物をくちゃくちゃ食べていたと仮定する。俺らはこの対象の行為を行為aと置く。

俺らはこの対象の行為aの善性を判断したい。俺らはこの対象の行為aの分岐性を認識する必要がある。この時、俺らはこの行為aを物に対応する行為であるのか、蟲に対応する行為であるのか、ヌシに対応する行為であるのかを審判する。もしその行為が蟲に対応するならば、その時、ヌシの世界から見ると、その行為はより分岐されていない。

だから、俺らはその行為を悪いと比較的に判断する。例えば、俺らは動物を蟲に対応すると信仰する。そして、動物は食物をくちゃくちゃ食べる。俺らはこの行為aを蟲に対応する行為と信仰する。その時、俺らはこのクチャラー行為をヌシ(の行為)から見るとより分岐されていない行為と審判する。従って、上記の「分岐と悪」により、俺らは対象のクチャラー行為を悪いと比較的に判断する。

善悪とその性質

善悪とその性質

 自然界における善悪の非存在:俺らは善悪を自然界(物)の中に知覚、認識することができない。

 俺らは善悪を自然界(物)の中に知覚、認識することができない(この現象を自然界における善悪の非存在と呼ぶ)。たとえ俺らが自然界の全てを明らかにするとしても、俺らは善悪をその自然界に中に知覚、認識することができない。だから、俺らは俺らの社会システムを形成するために、俺らは善悪を人工的に創造する必要がある。

善悪とその性質

 善悪のお家騒動:人々がそれぞれの善悪を自分勝手に作る時、善悪の正当性(正しさ)に関する争いが生じる。

 人々がそれぞれの善悪を自分勝手に作る時、善悪の正当性(正しさ)に関する争いが生じる(この現象を善悪のお家騒動と呼ぶ)。この時、俺らはどの善悪が最も正しいのかと感じる。例えば、キリスト教が男女平等を善と信仰して、儒教が男女公平を善と信仰する時、俺らはどちらの宗教が正しいのかと迷うだろう。

善悪とその真理

 善悪とその真理:真理とは唯一の正当な(正しい)善悪である。

 真理とは唯一の正当な(正しい)善悪である。言い換えると、真理とは、唯一に正当化された善悪である。