俺系統の善悪

 以下では、俺らはこの宗教における善悪を提示する。善悪に対する俺らの印象はサッカーなどの運動競技における善悪(レッドカード)である。俺らが社会システムを創造するとき、俺らはどんな行為が悪い(レッドカード)であるかを設定する必要がある。

また、俺らが善悪を提示する時、俺らはその善悪の正しさ(正当性)を提示する必要がある。一般的には、善悪の正当性はこの世界の創造主によって授けられる。この宗教では、俺らはこの宗教の目的がこの宗教における善悪を正当化すると信仰する。

世界には、キリスト教系統の善悪やイスラム教系統の善悪、儒教系統の善悪や仏教系統の善悪が存在する。そして、これらの善悪の全ては父系であってきた。

俺系統の善悪

 この宗教の目的は分岐である。だから、俺はこの目的を使用して、この宗教における善悪を定める。俺はこの宗教における善悪を俺系統の善悪を呼ぶ。俺は物事の善悪を俺系統の善悪で判断する。

俺系統の善悪

 俺系統の善悪 俺らはこの宗教の目的の方向により分岐された対象や対象の存在及び状態及び運動を善と比較的に判断する。俺らはこの宗教の目的の方向により分岐されていない対象や対象の存在及び状態及び運動を悪と比較的に判断する。

 俺らは「比較的に」という副詞を無視しない。善悪二元論では、対象や対象の存在及び状態及び運動は善か悪であるのかの二元論的に信仰された。俺らはこの善悪二元論を機械的と認識する。

この時、俺らは運転手や意識(蟲)は機械的でないと認識するので、善悪二元論は運転手や意識(蟲)の世界から見るとより分岐的でないと審判する。だから、俺らは善悪二元論を善と比較的に判断しない。日常的には、俺らは善悪を0と1の離散的な対象でなく、少数のような連続的な対象(スペクトル的?)と信仰する。

 俺系統の善悪の正当化 俺らは善悪を分岐で正当化する。

 俺らは善悪を分岐で正当化する。分岐はこの宗教の目的である。目的とは、実現したい対象や実現したい対象の存在や状態や運動である。

この宗教における分岐は儒教における礼やキリスト教における罪に対応する。例えば、儒教では、殺人行為は非礼である。非礼は悪いので、殺人行為は悪い。このような流れが存在する。

キリスト教では男女平等は善である。なぜなら、この世界の創造主がその目的を持ってこの世界を男女平等を実現するように創造したからである。創造主は男女平等というその目的を創造主の意志と信者の意志でこの世界に実現する必要がある。

上記をまとめると、一般的に、あるシステムの創造主の目的がそのシステムにおける善悪を正当化する。俺らはこの考えをこの宗教にも応用して、この宗教における善悪を俺らの目的で正当化する。つまり、分岐が善であるのは、俺がこの宗教システムを俺の目的によってそのように創造したからである。

判断の方法(手順)

 判断の方法(手順) 俺はある物事を知覚する。俺はある物事をより分岐的であるのかを俺系統の認識で認識する。次に、俺はその物事の善悪を俺系統の善悪で比較的に判断する。俺系統の知覚→俺系統の認識→俺系統の判断。

 俺は俺系統の善悪を使用して、次の善悪を判断する。例えば、俺はクチャラー行為の善悪を判断する。俺は動物を観察する。この時、動物の全ては食べ物をくちゃくちゃ食べる。俺はこの行為を行為aと置く。それに対して、人間は食事を音を立てずに食べることができる。俺はこの行為を行為bと置く。

俺は行為bは行為aより分岐的と認識する。俺は行為bをより善と俺系統の善悪で判断する。この宗教の目的がこの善を正当化する。従って、俺は行為bをより善と俺系統の善悪で判断する。

悪の場合は次である。俺は行為aは行為bより分岐的でないと認識する。俺は行為aをより悪と俺系統の善悪で判断する。この宗教の目的がこの悪を正当化する。従って、俺は行為aをより悪と俺系統の善悪で判断する。俺は物事の善悪をこのように判断する。

 この宗教では、俺は運転手をより分岐した存在(または対象)であると信仰する。俺はこの存在を存在aと置く。俺は意識を存在bと置く。俺は物質を存在cと置く。この時、俺は存在aを存在bよりも分岐していると認識する。俺は存在bを存在cよりも分岐していると認識する。上記と同様に考えると、俺は存在aを存在bより善と判断して、俺は存在bを存在cよりより善と判断する。ただし、俺は物質の存在それ自体を否定しない。否定すると、意識や運転手もなくなる。

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