自己

https://unsplash.com/

 以下では、俺らは俺ら自身(自己)が何であるのかを提示する。多くの宗教観は独自の人間観をもち、信仰者の自己が何であるのかを信仰者に授ける。同様に、俺らもまた俺らの自己が何であるのかを君らに授ける。

また、この宗教では、俺らは俺らの復活の実現を信仰する。この時、俺らは何を復活させたいのかを明確に定める必要がある。

自己

ヌシ

 ヌシ:俺らはヌシを自己と信仰する。

 俺らはヌシを自己と信仰する。ヌシとは、自己それ自体である。俺の肉体は俺自身でない。俺の蟲は俺自身でない。俺の視界(視蟲)は俺自身でない。

物は無から分岐して生じている。蟲は物から分岐して生じている。そしてヌシは蟲から分岐して生じている。ヌシは蟲から分岐して生じているが、その分岐の結果として、自己が生じている。

例えると、こうなる。車体は無から分岐している。カーナビや車体の中のホログラムは車体から分岐している。そして、運転手はそのカーナビやホログラムから分岐している。

自己とヌシ

 自己とヌシ:俺らは俺らの自己が永遠にヌシであると信仰しない。

 俺らは俺らの自己が永遠にヌシであると信仰しない。自己は必ずしも永遠にヌシでない。俺らは自己とヌシを区別する。なぜなら、もし何かがヌシから分岐するならば、その時、新たな自己が発生するかもしれない。

だから、ヌシが必ずしも永久的な自己とは限らない。しかし、現在では、俺らはヌシを自己と信仰する。自己=ヌシという等号は常には成立しない。俺らは分岐の結果、自己が生じたと信仰する。

復活の主体(対象)

 復活の主体(対象):俺らはヌシを復活の主体(対象)と信仰する。

 俺らはヌシを復活の主体(対象)と信仰する。ヌシは復活の主対象である。ヌシは復活の主対象である。たとえ分岐によって新たな自己が生じるとしても、俺らはこのヌシを復活させる。当然、新たな自己も復活させるかもしれない。

俺らの肉体や俺らの蟲は復活の対象でない。もしその肉体や蟲が復活の対象であるならば、たとえ俺らが俺らの肉体や蟲を復活させるとしても、俺らのヌシは復活させられない。その復活は自己なき復活である。なぜなら、俺らはヌシを自己と信仰している。

もし俺らの自己が俺らの肉体であるならば、遺伝的な複製による復活が可能である。しかし、俺らは複製された肉体を俺ら自身と信仰しない。もし俺らの視界が俺ら自身であるならば、平行宇宙における俺らの視界も自己である。その時、俺らは平行宇宙で復活したことになる。しかし、俺らは二重の視界や二重の痛みを感じない。つまり、俺らは俺らの肉体や蟲を俺ら自身と信仰しない。ヌシが復活させるべき主対象である。なぜなら、俺らはそれを自己と信仰してきた。