俺系統の自己

 以下では、俺は俺系統の自己について述べるつもりである[意志]

背景

 以下では、俺は俺系統の自己に関する背景ついて述べるつもりである[意志]

自己

 俺系統の認識 俺は次を俺系統の認識で認識する。もし人種や民族や文明や宗教、そして個体が互いに異なるならば、彼らの自己それ自体も互いに異なる。

 ある主体aは自己の肉体を自己と感じている。例えば、その主体は鏡に映し出された自己の顔や自己の肉体を自己それ自体と感じている。別の主体bは自己の視界それ自体を自己と感じている。この時、その主体bは自己それ自体は鏡には映し出されないと感じる。別の主体cは彼らが見たものや聞いたものを自己を感じている。例えば、その別の主体は日本列島それ自体を自己それ自体を認識している。このように、異なる個体や異なる宗教は何が自己であるのかを授ける。

一般的に、人間は自己を既存のものに対応させて、自己を認識している。人間が自己を何に対応させるのかを人工的に決定する。たとえ俺が自然界の全てを明らかにするとしても、自己を何に対応させるのかが唯一に善であるのかを知ることができない。だから、何を自己に対応させるのかは文明や宗教に関する話題である。

人工的な自己

 俺系統の認識 俺は次を俺系統の認識で認識する。大和民族は人工的な自己を認識していない。

 人工的な自己には、文明的な自己や宗教的な自己がある。大和民族は文明的な自己や宗教的な自己を認識していない。大和民族は自由主義や民主制度や国民国家、キリスト教系統の憲法が自己であるのかを認識していない。だからこそ、彼らは彼ら自身がキリスト教系統の憲法で罰されていることに文明的で宗教的な違和感を覚えない。なぜなら、彼らは文明的な自己や宗教的な自己を持っていない。

実際、大和民族はキリスト教徒でないのにも関わらず、彼らはクリスマスを祝い、ハロウィンを実行する。もし彼らが宗教的な自己を持っていたならば、彼らはその行為を自己の行為との宗教的で文明的な不一致を認識する。さらに、彼らはその不一致を悪いと判断する。

自己認識の崩壊(identity crisis)

 俺系統の認識 俺は次を俺系統の認識で認識する。異人種との中間種は自己認識の崩壊を経験する。

 例えば、コーカサス人種の雄とモンゴロイド人種の雌が交雑して、彼らは中間種の子孫を作った。その時、その中間種はコーカサス人種とモンゴロイド人種の間に遺伝的に配置される。けれども、人間の視点は一つであり、肉体の遺伝のように中間的な視点や二重の視点はない。彼らは彼らの視点をどこに置く(所属させる)べきであるのか、そして彼らの自己を何に対応させるべきであるのかに悩む。

その結果、彼らは自己認識の崩壊を経験する。彼らは彼らの視点を西洋文明に所属させるのか、東洋文明に所属させるのかを決定することができない。この自己認識の崩壊は人間社会における人間的な現象であり、生物学的な現象でない。なぜなら、動物は自己の視点を持っていないか認識してない、または動物は自己の視点に関心を持っていない。また、動物は自己を何に対応させるのかを思考しない。

俺系統の自己

 以下では、俺は俺系統の自己を提示するつもりである[意志]

運転手

 俺系統の信仰 俺は次を信仰する。俺は俺系統の自己を自己の運転手に対応づける。

 この宗教では、俺は物質と意識(蟲)と運転手の3種類を認識、または信仰する。俺は俺系統の自己を自己の運転手に対応づける。俺は自己を自己の肉体に対応づけない。俺は自己を自己の意識(蟲)に対応づけない。

俺は自己を自己の肉体に対応づけない。だから、たとえ俺が俺の肉体を鏡に写し出すとしても、俺の肉体は写し出されるが、俺の自己それ自体(運転手)は映し出されない。つまり、俺の自己は鏡やそのほかの物質には映し出されない何かである。同様に、俺の意識も鏡や物質には写し出されない。また、俺の自己は意識にも写し出されない。

例えると、俺の肉体は車体である。俺の意識、特に俺の視界は車体の中の立体映像(ホログラム)である。俺の自己は車体の中の運転手それ自体である。この宗教では、俺は自己をその運転手それ自体に対応させる。

自己と信仰

 俺系統の信仰 俺は「俺は俺系統の自己を自己の運転手に対応づける」ことを善と俺系統の善悪で判断する。

 上記でも述べたように、ある主体が自己を何に対応づけるのかは人工的な行為である。俺はその行為のx教系統の善悪を考える。この宗教では、俺は自己を自己の運転手に対応づけることを善と俺系統の善悪で判断する。俺はその対応の善性の唯一性を信仰する。その信仰とは、俺がその善が唯一に正当であることを実際であると強く認識することである。

この宗教では、俺は分岐を目的とする。だから、俺はより分岐した対象をより善と判断する。俺は運転手を物質や意識よりも分岐したと認識する。この時、俺が自己を運転手に対応させる行為は自己を自己の肉体や自己の意識(蟲)に対応させる行為よりもより分岐したと認識する。この時、俺は自己を運転手に対応させる行為を自己を自己の肉体や自己の意識(蟲)に対応させる行為よりもより善と俺系統の善悪で判断する。だから、俺は上記の信仰を善と俺系乙の善悪で判断する。

言語表現

 俺系統の認識 俺は次を俺系統の認識で認識する。俺は自己の運転手を俺と呼ぶ。

 例えば、俺は自己を運転手に対応づけると言った時、俺は自己を誰の運転手に対応づけるのかを決める必要がある。俺は自己を自己の運転手に対応づける必要がある。俺は自己を他者の運転手に対応づけない。だから、俺は自己の運転手に対応する名前を与える必要がある。俺はその名前を運転手レ(untenshure)とする。oreのreを付加した。

さらに、俺は名前を相手の運転手に与える。二人称では、俺はその名前を運転手ミ(unteshumi)とする。kimiのmiを付加した。三人称では、俺はその名前を運転手シャ(untenshusha)とする。tashaのshaを付加した。運転手は一般名詞である。だから、俺は一般名詞を変形させて、自己である運転手と自己でない運転手を区別する。

この考えは印欧語族における属格に類似するかもしれない。たとえ俺が運転手と唱えるとしても、俺は誰の運転手を取り出すべきであるのかをその単語だけでは指定することができない。もし俺は一単語を一対象に対応づけるという規則を持つならば、俺は一つの単語だけで運転手を取り出す必要がある。だから、俺は単語を後ろからreのように変形させて、俺は特定の運転手を取り出す。

自己と運転手

 自己と運転手 俺らは俺らの自己が永遠に運転手であると信仰しない。

 自己は必ずしも永遠に運転手でない。俺らは自己と運転手を区別する。なぜなら、もし何かが運転手から分岐するならば、その時、新たな自己が発生するかもしれない。

だから、運転手が必ずしも永久的な自己とは限らない。しかし、現在では、俺らは運転手を自己と信仰する。自己=運転手という等号は常には成立しない。俺らは分岐の結果、自己が生じたと信仰する。

 復活の主体(対象):俺らは運転手を復活の主体と信仰する。

 この宗教では、俺は自己の復活を信仰する。だから、俺は運転手レの復活を信仰する。

俺系統の人工的自己

 以下では、俺は俺系統の人工的自己を提示するつもりである[意志]

宗教

 俺系統の認識 俺は次を俺系統の認識で認識する。俺は人工的自己をユダヤ教及びキリスト教及びイスラム教に対応づけない。

 ここでの人工的自己は宗教に関する人工的自己である。つまり、俺は宗教的自己をユダヤ教及びキリスト教及びイスラム教に対応づけない。同様に、俺は宗教的自己をヒンドゥー教や印欧神話やその他の宗教や神話に対応づけない。

神道や儒教は例外である。俺は母系宗教的自己を神道や儒教に対応づける。神道は母系民族宗教である。儒教は母系文明宗教である。ただし、俺は母系宗教的自己を神道や儒教に対応づけない。俺は父系宗教的自己を俺らについてに対応づける。

文明

 俺系統の認識 俺は次を俺系統の認識で認識する。俺は人工的自己を地中海文明及び西欧文明に対応づけない。

 ここでの人工的自己は文明に関する人工的自己である。つまり、俺は文明的自己を地中海文明及び西欧文明に対応づけない。地中海文明及び西欧文明には、民主制度や自由主義や国民国家がある。同様に、俺は文明的自己をインド文明や中東文明に対応づけない。

俺は母系宗教的自己を東洋文明に対応づける。ただし、俺は母系宗教的自己を東洋文明に対応づけない。俺は父系宗教的自己を俺らについてに対応づける。

俺系統の人工的自己

 俺系統の認識 俺は次を俺系統の認識で認識する。俺は母系宗教的自己を神道及び儒教に対応づける。俺は母系文明的自己を東洋文明に対応づける。俺は父系宗教的自己を俺らについてに対応づける。俺は父系文明的自己を俺らについてに対応づける。

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