刑罰

https://unsplash.com/photos/scgqFtJoa10

 以下では、俺らはこの宗教における刑罰を与える。俺らがサッカーシステムのような運動競技システムを作るとき、俺らは違反行為に対する罰則(刑罰)を定める必要がある。同様に、俺らが社会システムを形成するとき、俺らは刑罰を与える必要がある。

刑罰(人誅)

刑罰(人誅)

 刑罰(人誅):俺らはより分岐されたヌシが分岐された対象の蟲(怨念など)をその対象の代わりに俺らの世界に実現する。

 俺らはより分岐されたヌシが分岐された対象の蟲(怨念など)やヌシ(目的や意志)をその対象の代わりに俺らの世界に実現する。ここでは、感情を蟲に対応させて、意志や目的をヌシに対応させた。

俺らは創造主の下での裁きや罰でなく人間の意志や怨念を読み取りそれにしたがって罰を与える。罰の正当性は創造主の意志でなく個人の意志やなき意志(怨念)である。

刑罰の主体の善性

 刑罰の主体の善性:俺らはより分岐された主体(対象)が刑罰を実行することを善と判断する。

 俺らはより分岐された主体(対象)が刑罰を実行することを善と判断する。俺らが刑罰を考えるとき、俺らは誰が刑罰を下すのが正当であるのかという問題に行き着く。つまり、俺らは刑罰の主体の正当性に関する問題を宗教的に解決する必要がある。

この宗教では、俺らはより分岐された主体や対象が刑罰を下すことを善と判断する。この善性は分岐によって正当化される。要するに、俺らは俺らのヌシや蟲は物質的世界から分岐した存在であるので、それらが何かを罰することは正当であると信仰する。このとき、俺らは創造主なしに刑罰の正当性を獲得することができる。

ヌシが誰かの蟲(怨念)や意志を物質的世界から汲み取って、他人を罰する。ヌシはヌシ的世界に住み、怨念(状態)は蟲的世界の現象である。より分岐された存在(ヌシ)が物質的世界から分岐した状態(怨念)を汲み取って誰かを罰するので、その行為は正当である。

刑罰(人誅)と損害

 刑罰(人誅)と損害:損害が刑罰を導く。

 損害が刑罰を導く。例えば、サッカーにおけるハンド行為は損害を他人に与えていない。けれども、サッカーシステムの創造主がそのように決定したので、ハンド行為に対する違反が罰則になる。

この宗教では、俺らは損害なき刑罰を採用しない。西洋では、たとえ損害がないとしても、創造主の言葉や文字に対する違反が刑罰の対象行為になる。その結果、豚肉やアルコールを摂取してはいけないという決まりが生じて、その決まりに違反すると、なぜか刑罰を科される。

しかし、この宗教では、俺らは自己や他者に対する損害が生じたので、その損害に応答して刑罰が科されると信仰する。俺らはこの種の考えを「損害的刑罰」と呼ぶ。

寄付