生死

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 多くの宗教は独自の死生観を与えてきた。例えば、ユダヤ教やキリスト教では、それぞれの教徒は天国や地獄に関係した死生観を持っているように見える。儒教では、東洋人は彼らの子孫の視点を便宜的に獲得している。

例えば、俺らが死ぬとき、死後における俺らの知覚主体は地球上には認識されないだろう。なぜなら、俺らが死んだ後、光やエネルギを捉える検出器(脳)は機能していない。たとえ俺らが死ぬとしても、俺らは俺らの視点を病院などの地球の上に置くが、これは社会的な死生観の結果である。

もし俺らが本当に科学的(野生的)な死生観を持つならば、俺らは死後の視点を地球の上に置くべきでないだろう。なぜなら、自己の死体を見つめるというその視点は経験的に導出された他者の視点である。もし俺らが子供や孫、同じ民族や人種の視点を獲得しながら死ぬならば、その死生観は子孫と先祖に関する儒教的な死生観の結果であるだろう。

死生観

ヌシの復活

 ヌシの復活:俺らは俺らの子孫が俺らのヌシの復活を実現させることを信仰する。

 俺らは俺らの子孫が俺らのヌシの復活を実現させることを信仰する。口語的には、俺らのヌシは一度死ぬが、いつか復活するだろうと信仰する。俺らは俺らのヌシがいつどこに復活するのかすらよくわからない。復活したヌシがどうやって復活したことを認識するのか、記憶はどうするのか。

俺らは俺らのヌシを復活させるために、俺らはいつと言う時間やどこにと言う場所(空間)について調べる。俺らは俺らのヌシを現在のような同一の世界に復活させるのか、または平行宇宙のような世界に復活させて、別々に生きるのかも決めていない。

また、俺らは俺らのヌシの復活を信仰するので、俺らは俺らの肉体や蟲を復活させる必要はない。現時点では、俺らのヌシは俺らの肉体や蟲なしに存在しない。その状態は俺らのヌシは蟲や物と言う畑なしには存在しないことに似ている。

 しかし、復活の際には、俺らはヌシを純粋に取り出して、ヌシのみで魂や魂魄のように生きれるようにしたい。また、ヌシは蟲と一対一に唯一に対応しないので、現在の対応は奇跡的に思える。俺らは俺らのヌシをどうやって復活させるのかも不明である。

 :生(生きている)とは、生とは、ヌシが蟲世界から分岐している状態である。

 生(生きている)とは、生とは、ヌシが蟲世界から分岐している状態である。分岐世界観では、物は無から分岐して、蟲は物から分岐して、ヌシは蟲から分岐している。巴世界観では、物と蟲とヌシは3重に成立している。

そして、今分岐世界では、物は今無から分岐していて、蟲は物から今分岐して、ヌシは蟲から今分岐している。俺らは俺らの生という状態をこのように信仰する。生とは、ヌシという自己が蟲世界から分岐している状態である。もし俺らが新たな自己を分岐によって創造するならば、その時、生とは、その自己がヌシから分岐する状態になるだろう。

 :死(死んでいる)とは、ヌシが蟲から分岐されなくなる状態である、または蟲が物から分岐されなくなる状態である、または物が無から分岐されなくなる状態である。

 死(死んでいる)とは、ヌシが蟲から分岐されなくなる状態である、または蟲が物から分岐されなくなる状態である、または物が無から分岐されなくなる状態である。死とは俺らのヌシが分岐されなくなる状態である。日常的には、俺らが交通事故にあう時、俺らの肉体は破壊されて、俺らは死ぬ。俺らの肉体の状態は正常でなくなった結果、俺らの蟲の分岐状態が破壊された。

ヌシの存在は蟲の存在に依存しているので、蟲の分岐状態がなくなると、蟲の存在それ自体が失われる。蟲の存在がなくなると、ヌシの存在も分岐状態も蟲の存在に依存しているので、ヌシの分岐状態もなくなる。つまり、ヌシが存在しなくなる。 

死はヌシの蟲からの分岐である。つまり、死とは、ヌシの分岐状態の喪失であり、その状態がなくなると、ヌシが存在しなくなる、つまりヌシが死ぬ。この意味での復活とは、一度、分岐状態が失われたヌシを再び分岐させることである。死や生がきちんと認識、信仰された後、復活という行為がきちんと認識、または信仰される。当然、復活の対象もきちんと定められるべきである。

俺らについて